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水牛だより

鳥の声

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朝、晴れていて空が明るんでくると、いつも上方の決まった方向から金属性の大きな音が聞こえてきて、覚醒モードになる。隣りの集合住宅の最上階に住んでいる人がデジタル音を好んで出しているのかと思っていたが、半分眠りながらよく聞いていると、それは一羽か二羽の鳥の声だった。

鳥の声は隣りの集合住宅の壁に反射して聞こえてくるのだと思う。そのことがわかれば、角度から鳥がどこにいるのかもわかる。確かにそこには大きな木が一本あるのだ。それにしてもたった一羽のあの声の大きさはどうだ。鳥も朝だと元気があるのか、あるいは大きな声を出さなければならない必要があるのかもしれない。鳥の生態を調べてみよう。

バリ島で泊まった部屋のすぐ近くに大きな木があった。夜明けとともにその木で眠っていたらしいたくさんの鳥がいっせいに鳴きだして、とても眠っていられないほど騒々しい。でもこちらが起きて朝食を食べるころにはどこかに飛んでいってしまって、翌朝まで静かになる。どこでどうしているのかな。

歩いているとき、木から鳥の鳴き声が聞こえることがあるけれど、鳥の姿を見つけるのはむずかしい。ときどき静かに木から姿を見せている集団がいる。思わずシャッターを押してからしばらく見惚れた。


# by suigyu21 | 2019-10-01 21:06 | Comments(0)

キミは誰ですか?

同年代の女性の友人に会いに行った。横浜のはずれにある彼女の家に到着すると、結婚して遠くに行ったはずの娘がいる。私が知らないだけだったのか、生まれたばかりのような小さな男の子を抱いている。赤ん坊が男の子であることになぜだか疑いはない。久しぶりに会ったので、あれこれ話していると、赤ん坊が手をのばして、私のところに来たがっているのみたいだった。おいで、と両手を差し出して抱いてみると、不思議なほどに手足が長い。赤ん坊の体としてはバランスが悪いなあ。ためしに彼の長くまっすぐな脚を伸ばしてみると、ほとんど私の脚とおなじ長さまでどんどん伸びていく。キミは誰なの? と思った一瞬ののちには丸々としたふつうの赤ん坊に戻っていた。そして、かわいい。

午後の明るい光に満ちた林を歩いていく。はじめてのところだけれど、なんとなく懐かしい気持ちがする。ここまでどうやって来たのだろう。向こうから古い知り合いの彼が歩いてくる。以前より若くなったみたいだ。微笑みあってから、いつもそうするように彼の右手を握ると、あたたかい。そしてそのまま二人で歩いていく。歩きながらときどき彼の目を見るだけで、なにも話さない。あれ? キミはとっくに死んだんじゃなかったけ? と思いながら、でも手を離さずにゆっくりと歩いていく。

一晩のうちに見たふたつの夢のことをこうして書いてみると、なんだかばかばかしい感じがしてくる。脳内の出来事なのに、存在しないはずの赤ん坊の脚がするすると伸びていく感触と、死んだはずの彼の手のあたたかさが、目覚めたあとも肉体の感覚として残っているのがなんとも不思議で、そのために夢をずっと覚えている。
# by suigyu21 | 2019-06-01 20:48 | Comments(0)

光と影と

外出するとき、天気がよければカバンに小さなデジカメを入れる。スマホで写真を撮る人が増えたので、すでに絶滅したであろうスマホよりも小型のカメラだ。カメラを持っていると、撮るべき被写体がちゃんと私を呼んでくれる。歩みをとめて撮るのは風景の一部分が多い。生物のように動いているものは、シャッターチャンスを見極めるのがむずかしい。ときにそのチャンスに恵まれることはあるけれど、シャッターを押したときにはすでに遅いことが多い。つまり、下手、なのだ。

図書館の裏に鯉の池がある。色の派手なのや地味なのや、大きな鯉がそこで生きている。通りがかったときに、岸の近くに群れていたので、写真に撮ってみた。カメラのモニターで確かめると、いい感じだった。次にそこを通ったときには快晴だったので、鯉が近くに来るのをしばらく待って、また撮った。鯉は人の気配で寄ってくるようにも思える。ずっと人間の近くで生きているのだものね。何枚か撮ってからモニターで確認すると、よく写っていない。前に撮ったときは曇っていたので、きょうのほうがよく撮れそうな気がしていた。私の眼では水の中を泳ぐ鯉たちはちゃんと見えていたけれど、水が太陽からの直射光を反射しているために、カメラでは水中はよく写らないのだった。鯉を撮るなら曇の日にするべきことをまなんだ。そして、そのときから太陽光というものをきちんと意識するようになった。

そんな観察眼がとらえた光と影の一枚をここに載せよう。近くにファミリーレストランがあり、よくその前を通る。レストランは二階にあり、建物の下の一階は駐輪場になっていて、なぜか床は緑色に塗られている。午後の太陽の光がどこかの隙間から緑色のコンクリートの床に届いていた。その端に、レシートが落ちていて、少し湾曲している。その影がくっきりとある。ただそれだけの写真だが、立ち止まってシャッターを押した。光と影が作る偶然の一瞬を自分では気に入っている。見てもらった少数の友人たちは、これはなに? とか、意味不明、とか言っている。

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# by suigyu21 | 2019-02-24 20:00 | Comments(0)

片岡義男の『あとがき』

発売からすでにひと月が過ぎようとしているが、片岡義男『あとがき』の編集に携わった。本に出来て、よかった。

片岡さんの書籍には、あとがきがついているものが多い。エッセイだけでなく、小説にもついている。そして、それがおもしろいのだった。最初に「を!」と思ったのは『僕が書いたあの島』(1995 太田出版)というエッセイ集の長いあとがきだった。エッセイ集なのに、自分の書く小説について書いてある。どのようにしていまのような小説を書くようになったのか、という論考として読んだ。

次にあとがきについてしばし考えたのは『エンドマークから始まる』『私の風がそこに吹く』(いずれも2001 角川文庫)を読んだときだった。短編小説集のあとがきで、これらも小説論だが、書く側だけでなく小説を読む側まで考えが及んでいる。

あとがきを集めてみれば、片岡さんの小説論が出来上がると思った。それが『あとがき』の出発点だった。考えたのは20年近く前で、いつもなんとなくぼんやりと頭の中にあったけれど、20年を経てまとめられたということは、その20年の間に書かれたあとがきが加わっていることでもあるから、そのほうがいい。

あとがきは依頼されなければ書かないし、書くときはたいてい怒っている、と片岡さんは言っている。編集サイドからすると、著者に初校を見てもらうときに字数を含めて正式にあとがきをお願いするのが作業の流れの常だ。でも著者である片岡さんにとってはその本はすでに終わっているもの。あとがきのために少し戻って考えなくてはならない時差が「たいてい怒っている」ことの理由かもしれない。

それでも、片岡さんのあとがきのおもしろさには抗しきれず、今回の『あとがき』にもまた「あとがきを書いてくださいね」とお願いした。それからの経緯は『あとがき』の「あとがき」に詳しく書かれている。まず「あとがきを書いてください」という依頼のひとことが短編小説のタイトルとなったのだが、なぜこれがタイトルになりうるのか、なぜ片岡さんの小説脳を刺激したのかよくわからない。小説の内容についても、きちんと説明されているけれど、どこかわからなさが残るのはいつものことで、むしろそのわからないところこそがおもしろい。「あとがきを書いてください」という短編は実際に書かれて、片岡義男.comで公開されている。ぜひ読んでみてください。→ 「あとがきを書いてください」

本ができたあとで、この『あとがき』は、私と同じように、「あとがきを書いてください」と依頼した編集者たちのひとことがあったからこそ実現したのだとあらためて思った。『あとがき』はそのクロニクルであり、アーカイヴでもある。


# by suigyu21 | 2018-11-01 21:10 | Comments(0)

おいしいね

とてもおいしい夕食をごちそうになった。若いシェフがひとりでやっている、カウンターとテーブル席ひとつの小さなイタリアン・レストランだ。何度か繰り返し行っているけれども、なんだか特別においしかった。アスパラガスのソテーの上に軽くスモークしたフォアグラの薄切りがのっていたりしてすばらしいのだった。

満足のあまり少し後ろめたさを感じながら帰宅した翌日、自分で作った夕食が失敗だった。三つくらいおかずを作ったが、どれもおいしいとは言いがたい。それでもみんなですべて食べた。おいしく出来ることもあれば、そうでないこともある。生きていく勤めとしての食事だと思うからか、「失敗です」とか言いながら食べるおかずはあまり残念な気はしない。ことしの夏のように暑くても、毎日二度か三度は食事をしているのだから、おいしいものばかりというのは苦しいと思う。そんな経験はしたことがないからそう思うだけなのかもしれないが、毎日かんたんに食べられればそれでいいのだ。自宅をレストランのようにしたくない。したいと思っても出来ないから心配はない。


# by suigyu21 | 2018-09-01 17:09 | Comments(0)