「塩食い会」の願いは、次の世代の人たちに藤本さんの著作を読んでもらいたいという、とても単純で素朴なものだったと思う。最近、榎本空『それで君の声はどこにあるんだ? 黒人神学から学んだこと』(岩波書店 2022)を読んだ。この本のなかに、『塩を食う女たち』に藤本和子さんが書いたことばが出てくる。「塩食い会」の願ったとおりだ。あまりにもうれしかったので、その箇所だけ引用しておきたい。かいつまんで本の内容を紹介するよりずっと本質が伝わると思うから。
イエスの福音とは、黒人が黒人として自らの存在を受け入れることだ。創造の神は私たちを愛しているのだから。自分を憎むのはやめにしよう。黒い肌を十分に抱きしめ、誇りにしよう。黒いことは美しいのだ。ジェイムズ・ブラウンが歌ったではないか、それこそがイエスの解放の業(わざ)なのだ。黒人の信仰を指して、「頑固なまでの生の肯定」と書いたのは藤本和子だが(これもまたなんと生き生きとした言葉だろう)、それを徹頭徹尾、神学の言葉で表現したのが、コーンという神学者だった。黒人神学の「黒人」はマルコムから、「神学」はマーティンから。コーンはよくそう言っていたが、当時のアメリカ社会にあってそんな混淆は、私たちが想像するよりもずっと奇妙で、危うく、向こう見ずな行為であったに違いない。
黒人を人間以下の存在として、社会の底に留め置くという白人優越主義の構造は、四〇〇年間、その表情を変えながら、温存されてきた。デュボイスがいたにもかかわらず、フレデリック・ダグラスがいたにもかかわらず、ゾラ・ニール・ハーストンやアイダ・B・ウェルズがいたにもかかわらず、公民権運動やブラック・パワー運動があったにもかかわらず、オクタヴィア・バトラーやラルフ・エリスンがいたにもかかわらず、ファニー・ルー・ヘイマーやエラ・ベイカーがいたにもかかわらず、ブラック・ライヴズ・マター運動があるにもかかわらず。いや、そんな認識可能な名をもたない、黒人たちの美しい生の実験の瞬間が無数にあったにもかかわらず。
偶然生き残った人びとは、藤本和子が黒人の経験を形容して使った言葉を借りるなら、「生きのびる意志を持続」させてきた者でもあるからだ。それは偶然であり、しかし彼らが掴み取った必然である。運命であり、しかし彼らが受け入れた使命である。だからこそ、生き残りという言葉で自らを呼んでいくことには、人間の命に厚顔無恥にも優劣をつくりだす権力へ抵抗するような尊厳に溢れた響きがあるそ、何よりも、生き残ることが叶わなかった人びととの、肉体的で、霊的、歴史的な結びつきを手繰り寄せるような祈りがある。
警察の暴力の生き残りである黒人は、リンチの生き残りでもあり、奴隷制の生き残りでもある。そうやって生き残りとしての自己を掴み取ることで生きのびながら、私が出会った黒人たちは、先に死んでいった者たちとの関係を築き、築き直した。そんな手製の特別な系図が、今もなお死の隣にある彼らの生を支えている。そして、ことキリスト者にとって、生き残ることの叶わなかった人びとと生き残った人びとが、細やかな織物のように編み込む系図は、そのまま、白人キリスト教が押しつけたキリストを飛び越えて、二〇〇〇年前のイエスまで悠々と遡っていく。そうやって過去との特異な関係を取り結ぶという終わりのない行為を、信仰を呼ぶのではないか。
『塩を食う女たち』が出版されたとき、榎本さんはまだこの世に登場していなかった。ふたりの年齢は50歳ほどちがう。それでもこうして、ことばは響き合う。感度の高いアンテナと、それを受けとめるナイーヴな感受性とはふたりに共通しているみたいだ。榎本さんの翻訳書『誰にも言わないと言ったけれど-黒人神学と私-』(ジェイムズ・H.コーン著 新教出版社 2020)も読んでみようと思う。
二〇二〇年の四月ごろ、フェイスブックでのある企画を知った。友人からバトンがまわってきたのだ。それは「読書文化の普及に貢献するためのチャレンジ」「7日間ブックカバーチャレンジ」というもので、好きな本を一日一冊、本についての説明なしに表紙だけの画像をアップする。期間はひとり一週間だから、全部で七冊の表紙だ。ひとつ載せたら、誰かにバトンをまわすという決まりだった。
フェイスブックにアカウントは持っているが、「お友達」の投稿をときどき読むだけで、それはもっともダメなメンバーだといわれている。でもこの「チャレンジ」はおもしろいと思い、参加した。表紙のデザインとタイトルのユニークさを考えて、身の周りにあった七冊を選んで表紙の写真を載せた。本の表紙は、きちとんとデザインされているから、整ったかたちのなかにその本の情報がすべて入っている。中身は読んでみないとなんともいえないとしても、自分にとっておもしろいかどうか、ある程度のことは推察できる。
「本についての説明なし」というのがこのチャレンジの意図する重要なお約束で、私はそこにもっとも興味をひかれた。しかし、意外にも多くの人たちは、本についてのあれこれをしつこいくらいに書いているのだった。決まりごとは読まない人が多いのかな。あるいは本については、どうしても内容を語りたくなるのかもしれない。
この経験が楽しいものだったので、本の表紙だけの写真をときどき撮っている。そのなかから、何冊かを選んでみた。ランダムに選んだつもりだが、ある種の傾向はあるかもしれない。もちろん本についての説明はありません。
写真で見ると、文庫も単行本も同じサイズに見える。これではダメだな。





月刊のミニコミ「水牛通信」を出していたころ、その編集や執筆を担当した人のなかで、1938年寅年生まれの人が多かったのはどういう偶然だったのか。編集委員会(自称)には津野海太郎さん、平野甲賀さん、鎌田慧さん、高橋悠治さんがいて、茅香子さんと林のり子さんは原稿を書いてくれたり、いろんなイヴェントを助けてくれた。彼らの一年下には藤本和子さんと片岡義男さんがいる。戦争に向かうころに生まれたこどもの数は少なかったことを思えば、小さな集団としては、とても偏っていたことに間違いはない。
閑話休題。
『ひとりのときに』を読むと、こういうふうに年齢を重ねられたらいいなと思うし、平易な書きかたのせいか、案外かんたんにできそうな気がしてしまうけれど、実際にはそうはいかない。たとえば、朝日新聞社をリタイアしてから続けている英文翻訳塾を、コロナ禍でもずっと対面でおこなった事実ひとつをとっても、そこにゆるぎない強さを感じる。声高になにかを主張したりしないこの強さは、茅香子さんのパズルの強さと根はおなじなのではないかと思ったりする。オセロが流行していたとき、勝ち抜き大会で東京都の代表になるくらい強いのだ。ひとりで出来るパズルをいくつかおしえてもらって、いまもときどきはまるが、楽しむわりに、わたしの成功率はとても低い。だから茅香子さんのその強さが特別であることはよくわかる。
98字で、という制約を自分でつくって日記を書くのも、ひとりのときにふさわしい強さだ。ウエブではずっと読み続けている。ほぼリアルタイムの楽しみだ。本になって2021年という一年分をまとめて読むと、具体的なことは書かれていないけれど、茅香子さんにとっての私的な出来ごとがあると同時に、その年にわたしが経験したことと重なる出来ごともあって、同じ時間を生きていたことにしみじみとした。もっともっとひとりで遊ぼう、とも思った。
80年代の水牛通信のころは田川さんを含めて、みんなと頻繁に会っていた。連絡手段は手紙か電話だけだったから、なににつけても会う必要があったのだ。そのころの田川さんの住まいは上野毛だった。田川さんの前立腺肥大の手術に付き添ったことがあった。それまでいっしょに暮らしていた女性と別れたばかりだったので、手術室のそばの部屋で、手術が終わるのを待って結果を聞く役目を引き受ける適当な人がいなかったから、病院も近いことだし、と引き受けた。手術は無事に終わった。二日くらいたって、お見舞いに行ってみると、同じ病室に入院している人の中心になって、おもしろおかしい話をしているようだった。入院二日ですでに病室の主のようになっていた。
上野毛の部屋も何度か訪ねた。太った猫が二匹いた。彼女たちに向かって、「かわいいね」とか「きれいね」というと、その言葉がわかるらしく、とたんに得意そうな顔と態度になる。縦に並べられているLPの背中は猫たちの爪研ぎに使われて、ボロボロ。なにのLPやらまったくわからない。おいとまするころには私の衣服には猫の白っぽい毛が無数についていたが、飼い主の田川さんの衣服にはついていないのは不思議だった。猫や犬を飼っている人はみなそうなのだろうか。
田川さんの服装はいつも目立っていた。派手な色をたくさん身につけている。はじめて会うひとはギョッとするかもしれないけれど、すぐに慣れて、それが田川さんなのだと思うようになる。靴は左右おなじのを履いていたと思うが(左右で色のちがう靴を履いていたのはジョン・ゾーンだった)、ソックスは左右そろっていないこともあった。そのころの田川さんは、自分の着るセーターを熱心に自分で編んでいた。太い糸と太い針で、大きな目のメリヤス編みだけのアバウトな編みかただったけれど、前後の見頃や袖、襟周りなど、すべてが色違いの原色の組み合わせで、編んでいるときから、いかにも田川さんらしい雰囲気があった。太い糸と針なので出来上がるのは早く、出来上がったらすぐに来て歩くから、会った人はみな新しいセーターに注目して、何か言う。それがうれしそうだった。
毎朝、どうやって着るものを選ぶのかと訊いたことがあった。洗濯したものを重ねてあるやろ、その一番上にあるものを順番に着るだけや、とのことで、そういえばそうでなくては成立しないファッション、というか、組み合わせだったな。さすがに舞台監督の仕事のときだけは黒一色でまとめていたけれど。
当時、田川さんが仲良くしている女の人はだいたい20代中頃だった。田川さん自身は毎年歳をとるのに、入れ替わる女の人はいつも同じようなお年頃。モテていたのだろうけど、そのわりには入れ替わりの頻度が高かったのはなぜだろう。
田川さんはいつも次の予定が決まっている忙しい人だったので、会うのはふつうは2時間くらいだった。もっとも長くいっしょにいたのは、冬の旅のツアーのとき。斉藤晴彦さんと高橋悠治さんがステージに立って演奏する人で、田川さんとわたしはその他の業務を担当した。ステージ以外ではわりと神経質な斉藤さんをいつも何気なく気にかけていた田川さんだった。旭川の駅前で、小沢昭一さんと偶然に出会ったときには、双方の全員がみな少し興奮して、その場だけ花が開いたようにはなやいだのもなつかしい。

