『記憶の図書館-ボルヘス対話集成-』を図書館で借りて、一部分だけ読んだ。ホルヘ・ルイス・ボルが視力を失ったあと、詩人・評論家フェラーリとの対話を集めたもの。ラジオ番組がもとになっているので、「きょうはここで時間です」と区切られてしまう。一つ一つが短くていい。それでも700ページ近くあるし、しかも2段組だ。予約している人がいる場合は2週間しか借りられない。一度返して、予約した人がみな読んでから、また借りよう。文学や文学者についてだけでなく、ボルヘスは友情についても案外たくさん語っているのだった、たとえばこんなふうに。
ボルヘス 女性は友情では卓越したものを持っています。彼女らは賞賛すべき友情の感覚を持っています。……女性はもちろん、男性よりも分別があり繊細です…いや、より繊細かはわかりませんが、ともかく男性よりも概して分別があります。その証拠に女性はめったに狂信的になりません。…
フェラーリ しかも、女性は愛の関係においてよりは友情の関係においてのほうが無害であるとよく言われます。それについてはどう思いますか。
ボルヘス ……しかし、愛は傷つきやすい関係ではありませんか。しかも絶え間ない確認を必要とします。確認がなければ疑惑が生まれます。何も便りがないまま数日が過ぎると破れかぶれになります。でも友人ならば、便りのないまま一年が過ぎても、何の問題も生じません。友情は、何というか、信頼を必要としませんが、愛はそうではありません。
さらに愛とは、いわば疑惑の状態です。心の休まらない、いつも警戒している状態です。でも友情では心の平静が保たれます。相手に会っても会わなくてもいいし、相手が何をしているか知っていても知らなくてもいいのです。友情に一種の嫉妬を感じる人もいるでしょうが、わたしは違います。友情を愛のように感じる人もたくさんいて、そういう人は相手のただ一人の友になりたいとさえ思います。
フェラーリ それは過ちです。友情は所有ではありませんから。
ボルヘス そうですね。しかし愛はたいてい所有です。
フェラーリ たしかに。
ボルヘス そうでなければ裏切りとみなされます。でも友情はそうではありません。
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by suigyu21
| 2022-06-01 10:42
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ゴールデンウィーク初日の朝、換気のためにドアをあけると、ちょっと生臭いスダジイの花の匂いに満ちた外気が一気に家のなかに入ってくる。きのうはそんなことはなかったから、花は今朝から開いたのだろう。匂いはいつも開花のはじまりが際立っている。スダジイの大きな樹は集合住宅の裏に一本だけある。見に行ったら、緑に近い黄色の花の色で、樹の表面がけむっていた。これからもっと咲く気配だ。
人々はゴールデンウィークで忙しそうだ。せっかくのおやすみなのに、ますます忙しく、疲れそう。ジェニー・オデル『何もしない』という本を読んで、生まれながらに持っている性癖が覚醒してしまった感じ。忙しさから逃れて、できれば寝て暮らしたい。
何かひとつ仕事がおわると、次は何をしようかなと考えてしまう。資本主義に毒されているのだろうけれど、次に何をしようかと考えるのは楽しいことでもある。が、「しない」方向にシフトしてみたいと思うようになった。
ケネス・グレアム『たのしい川べ』は1908年に書かれた。自分のこどものためのおはなしのようだ。前世紀初頭にすでにこんなふうに書かれている。そう、「ぼくらは、いつもいそがしい」だからこそ「それをやりたきゃ、やるのもいいさ。だけど、やらないほうが、まだいい」
人々はゴールデンウィークで忙しそうだ。せっかくのおやすみなのに、ますます忙しく、疲れそう。ジェニー・オデル『何もしない』という本を読んで、生まれながらに持っている性癖が覚醒してしまった感じ。忙しさから逃れて、できれば寝て暮らしたい。
何かひとつ仕事がおわると、次は何をしようかなと考えてしまう。資本主義に毒されているのだろうけれど、次に何をしようかと考えるのは楽しいことでもある。が、「しない」方向にシフトしてみたいと思うようになった。
ケネス・グレアム『たのしい川べ』は1908年に書かれた。自分のこどものためのおはなしのようだ。前世紀初頭にすでにこんなふうに書かれている。そう、「ぼくらは、いつもいそがしい」だからこそ「それをやりたきゃ、やるのもいいさ。だけど、やらないほうが、まだいい」
どこかへ出かけようが、出かけまいが、目的地へつこうが、ほかのところへいってしまおうが、それともまた、どこへもつくまいが、ぼくらは、いつもいそがしい。そのくせ、これといって、特別のしごとがあるわけじゃない。そして、一つのことをやってしまうと、また、なにかやることがある。だから、それをやりたきゃ、やるもいいさ。だけど、やらないほうが、まだいい。(ケネス・グレアム『たのしい川べ』 石井桃子訳 岩波書店)
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by suigyu21
| 2022-04-29 21:20
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はじめて買ったジョージアのワインはおいしかった。やさしくまろやかで、気持ちよく飲めてしまう。酔いはしばらくあとからほんのりとやってくる。そしてその酔いの感じもやさしい。最近岩波ホールでジョージア映画祭があり、その作品をすべて見た、という若い友人に一本プレゼントしようと思う。若いエネルギーがきらきらしている人と会うのはうれしい。
晴れてあたたかく乾燥している日に、寝具などを洗濯する。太陽のおかげですぐに乾いて、清潔になる。それだけで気分は爽快だ。
友人が土佐文旦を送ってくれた。愛媛で育った彼女は柑橘類についてくわしい。こどものころはみかんよりも夏みかんのほうが好きだった。それから、八朔。柑橘類でも皮の黄色い大きめのが好き、と彼女には伝えてある。文旦はおいしい。さっぱりとしているので、食べたあと体のなかがきれいになる感じがする。
同い年の友人からコロナに罹った、とメールが来る。お互いに後期高齢者だから、罹ったら死ぬかもしれないね、と言い合っていた。軽くすんで回復してからの知らせだったからホッとして、免疫ができてよかったね、と返事。正しく恐れることはもちろん大事だけど、正しく恐れないことも必要ですね。
仕事はぼちぼちと、少しだけ続けていて、特に問題なく進んでいる。そのためには私だって少しは努力をしているつもり。
毎朝のささやかな贅沢のため、電車を乗り継いで、4つ目の駅までコーヒー豆を買いにいく。深く焙煎したばかりの豆はバッグに入れても持ち歩いているときも芳しいアロマをまきちらしてくれる。
『ペンギンの憂鬱』を読み始める。著者のアンドレイ・クルコフはウクライナのロシア語作家。いまの大統領は芸人だったし、ウクライナのユーモアを思う。
わたし(たち)の人生はこうした小さな出来事のつらなりにすぎないのかもしれないが、だからといって一方的な暴力によってこうした日常を奪われたくはない。きょうは武器関連企業の株価が上昇しているらしい。スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの本のタイトルのように「戦争は女の顔をしていない」のだ。
晴れてあたたかく乾燥している日に、寝具などを洗濯する。太陽のおかげですぐに乾いて、清潔になる。それだけで気分は爽快だ。
友人が土佐文旦を送ってくれた。愛媛で育った彼女は柑橘類についてくわしい。こどものころはみかんよりも夏みかんのほうが好きだった。それから、八朔。柑橘類でも皮の黄色い大きめのが好き、と彼女には伝えてある。文旦はおいしい。さっぱりとしているので、食べたあと体のなかがきれいになる感じがする。
同い年の友人からコロナに罹った、とメールが来る。お互いに後期高齢者だから、罹ったら死ぬかもしれないね、と言い合っていた。軽くすんで回復してからの知らせだったからホッとして、免疫ができてよかったね、と返事。正しく恐れることはもちろん大事だけど、正しく恐れないことも必要ですね。
仕事はぼちぼちと、少しだけ続けていて、特に問題なく進んでいる。そのためには私だって少しは努力をしているつもり。
毎朝のささやかな贅沢のため、電車を乗り継いで、4つ目の駅までコーヒー豆を買いにいく。深く焙煎したばかりの豆はバッグに入れても持ち歩いているときも芳しいアロマをまきちらしてくれる。
『ペンギンの憂鬱』を読み始める。著者のアンドレイ・クルコフはウクライナのロシア語作家。いまの大統領は芸人だったし、ウクライナのユーモアを思う。
わたし(たち)の人生はこうした小さな出来事のつらなりにすぎないのかもしれないが、だからといって一方的な暴力によってこうした日常を奪われたくはない。きょうは武器関連企業の株価が上昇しているらしい。スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの本のタイトルのように「戦争は女の顔をしていない」のだ。
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by suigyu21
| 2022-03-01 14:27
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自宅から歩いて10分ほどのところに大型のスーパーマーケットがある。このあたりではもっとも大きく、もっとも新しい店舗だ。チーズの売り場には、うすくスライスしたミモレットがある。熟成したチーズの固さと薄さがとてもよくておいしい、赤ワインといっしょだとさらにおいしい。だからときどきこれだけを目当てに買いにいく。チーズ売り場のとなりは当然のようにワインのコーナーで、開店当時から片隅にジョージアワインが置いてあることを知っていた。少しずつ売れて、残り2種類それぞれ2本ずつになっていたので、はじめて一本買った。
おもに大型の集合住宅が連なる住宅地に出来たスーパーマーケットは住んでいる人たちにとってはありがたいことだろう。自宅からすぐのところには小さなスーパーマーケットがある。床面積は大型のものの十分の一くらいしかないが、ふだんはなんとかそこで間に合わせている。でもそこにはミモレットはないから、ときどきは足を延ばすわけだ。
歩いていく道は住宅地なので、退屈だから、左右をよくよく眺めて、おもしろそうなものを探してしまう。最近建った一軒家があり、黒っぽい色の建材で四角くおおわれていて、窓がひとつもない。いや正確には北側の壁に細い小さな切れ込みのようなガラスがあるが、あれはとても窓とは呼べないと思う。一日中ずうっと外からのあかりのない家なのかと驚いてしまうが、しかし、建築中に一度見たところでは、黒っぽい囲いのなかにはちゃんと庭があって、木が2、3本植えてあった。そして、建物の上部はなににも覆われていなかったから、そこからは外に通じていたのだ。完成した家がどんな構造になっているのかわからないが、もしかしたら、居住部分も窓がないかわりに、屋根は透明で開閉もできるのかもしれないと想像してみる。自分とはまったく関係のない家のことだけれど、そうだったら少しホッとする。
歩いていく道の左右には一軒家や集合住宅しかない。ある集合住宅の道路に面したちいさな片隅はいつ通っても、色とりどりの小さな花が咲いている。花は可憐に咲いているが、なんとなく無造作な感じが好もしくて、いつも見とれる。植えられた花は枯れるまで放置されて、のびのびと寿命をまっとうしているのだと思う。その花壇の写真、上ふたつは先月、下ふたつは昨日撮影した。愛らしい。
おもに大型の集合住宅が連なる住宅地に出来たスーパーマーケットは住んでいる人たちにとってはありがたいことだろう。自宅からすぐのところには小さなスーパーマーケットがある。床面積は大型のものの十分の一くらいしかないが、ふだんはなんとかそこで間に合わせている。でもそこにはミモレットはないから、ときどきは足を延ばすわけだ。
歩いていく道は住宅地なので、退屈だから、左右をよくよく眺めて、おもしろそうなものを探してしまう。最近建った一軒家があり、黒っぽい色の建材で四角くおおわれていて、窓がひとつもない。いや正確には北側の壁に細い小さな切れ込みのようなガラスがあるが、あれはとても窓とは呼べないと思う。一日中ずうっと外からのあかりのない家なのかと驚いてしまうが、しかし、建築中に一度見たところでは、黒っぽい囲いのなかにはちゃんと庭があって、木が2、3本植えてあった。そして、建物の上部はなににも覆われていなかったから、そこからは外に通じていたのだ。完成した家がどんな構造になっているのかわからないが、もしかしたら、居住部分も窓がないかわりに、屋根は透明で開閉もできるのかもしれないと想像してみる。自分とはまったく関係のない家のことだけれど、そうだったら少しホッとする。
歩いていく道の左右には一軒家や集合住宅しかない。ある集合住宅の道路に面したちいさな片隅はいつ通っても、色とりどりの小さな花が咲いている。花は可憐に咲いているが、なんとなく無造作な感じが好もしくて、いつも見とれる。植えられた花は枯れるまで放置されて、のびのびと寿命をまっとうしているのだと思う。その花壇の写真、上ふたつは先月、下ふたつは昨日撮影した。愛らしい。
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by suigyu21
| 2022-01-31 20:19
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2021年最後の日。いつものように、夫が淹れてくれる朝のコーヒーを味わってから起き上がり、コンピューターをオンにする。そしていろんなことばを目にするのもいつものとおりだ。きょうは見知らぬ人のこんなひと言にであった。
「国も社会も、誰も助けてくれない2022年を、せめて、きみとぼくと助けあって、言葉をうけとりあって、生きていかなければ。」
わたしはときには「きみ」であり、ときには「ぼく」でもあるだろう。助けあい、言葉をうけとりあい、生きていく。そうすれば、暗い暗〜い2022年にだって小さく灯る火はある、かな?
「国も社会も、誰も助けてくれない2022年を、せめて、きみとぼくと助けあって、言葉をうけとりあって、生きていかなければ。」
わたしはときには「きみ」であり、ときには「ぼく」でもあるだろう。助けあい、言葉をうけとりあい、生きていく。そうすれば、暗い暗〜い2022年にだって小さく灯る火はある、かな?
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by suigyu21
| 2021-12-31 21:44
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