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水牛だより

『暇なんかないわ 大切なことを考えるのに忙しくて』

少し前のこと。久しぶりに大型書店に行って、翻訳文学のコーナーを見渡す。そこが好きだから。隣は日本の小説のコーナーで、とてもたくさんの新刊書が並べられている。翻訳書のスペースはその2割くらいしかない。でもそのコーナーに並んでいる本は一冊一冊の主張が強い。タイトルと著者の名前そして翻訳者の名前も見る。

この日はその小さなコーナーに平積みにされていたなかに、アーシュラ・K・ル=グウィンが淡く笑っている顔が見えた。『暇なんかないわ 大切なことを考えるのに忙しくて』の表紙だった。ずっと愛読してきた作家で、二〇一八年に亡くなってからの新刊、となれば買う。晩年に書いていたブログからの収録というのにも興味を惹かれる。自分が書いているこのようなブログとどんなに違うのだろうか。

私にはルーマニア人の友人がひとり、いる。だからルーマニアの、特に文学については無関心ではいられない。いつも微弱なアンテナを立てている。いまはそこにひっかかった『方形の円 偽説・都市生成論』が机の上にある。ギョルゲ・ササルマンという著者の名前ははじめて知った。訳者の住谷春也という名前はもうおなじみだ。お世話になっております。

ギョルゲ・ササルマンについては、もちろんなにも知らなかった。この小説は36の架空の都市について書かれている。もちろんみなフィクションだ。SFの要素もある。まずはじめに「日本の読者へ」と題されたまえがきがある。「人間の集落に固有の建築・都市構造の空間性を視覚化する描写に力を入れることを通じて、私は言語の障壁をいくらかでも回避しようとしました。こうすることで、言語のより抽象的な層を振動させようと試みたのです。それは、一般的な意味が浸透し、普遍性があり、ほかの民族語に移転させ易い層です。」
日本語版だけでなく、フランス語版にもスペイン語版にもそれぞれみじかいまえがきがあり、それも本文の後に掲載されている。そして、その後に英語版の序文があり、それを書いているのはアーシュラ・K・ル=グウィンなのだった。スペイン語から英語に(36編のうちの24編を)翻訳したのもアーシュラ・K・ル=グウィンなのだった。

このような偶然のようなめぐり合わせは、私にとってはうれしい驚きだ。世界がぎゅっと凝縮したように感じられたり、世界が小爆発したように広がる感じもある。『方形の円 偽説・都市生成論』の小説の部分は読んでいるけれど、あまりよくわからない。わからないということは大事だなと思う。


# by suigyu21 | 2020-03-31 20:28 | Comments(0)

本と本と本と

ジーン・リースが長年ベッドで執筆する習慣だったと『天才たちの日課女性編』で知り、寝て読書をするし、その日最初のコーヒーはできるだけ寝床で飲む習慣のわたしはベッドの方面に向けてもう少し努力するべきだと思った。

同じ本で、売れっ子作家だったドロシー・パーカーが、書くことが嫌いで、締め切りをほとんど守れなかったことも知る。「あるインタビューで「やっていて楽しいことはなんですか」ときかれたときに、「書くこと以外はぜんぶ楽しい」と答えている。」というくらい徹底している。書くことが嫌いな人はどんなことをどんなふうに書くのだろうかと興味を持ち、近くの図書館で検索してみた。そして借りたのは『ガラガラヘビの味 アメリカ子ども詩集』(アーサー・ビナード/木坂涼編訳 岩波少年文庫)だ。ドロシー・パーカーの詩は「美しいバラ一輪」と「快楽主義の欠点」の2編が収録されている。「快楽主義の欠点」というタイトルはすばらしい。

この詩集のなかのエミリー・ディキンスンは、「いちばん心が通じるのは(My best acquaintances are those)/言葉で話したことのない相手。」といっている。そう思うこと、あるなあ。

そしてシェル・シルヴァースタインの「おなじようなもの(No Difference)」

ピーナツほど小さくても
巨人ほどでっかくても
明かりを消せば大きさなんか
たいしてかわりがない。

王さまくらい金持ちでも
イエダニくらい貧乏でも
明かりを消せば価値なんか
たいしてちがわない。

肌の色が黒でも黄色でも
赤、オレンジあるいは白でも
明かりを消せば外見なんか
にたようなもの。

ひょっとしたらこの世の
たくさんの問題をかたづけるには
神さまが手をのばして
パチンと明かりを消すのがいいかも!

  * *

これらの詩がまだ頭のなかにただよっているときに、与那国の小さな出版社カディブックスから『くらやみに、馬といる』(河田桟)がやってきた。郵便受けから封筒を出して、差出人の住所に八重山郡与那国町の文字を見るうれしさといったら! エレヴェーターのなかで封筒をあけ、部屋に入って、ベッドではなく、立ったままで読み始め、そのまま読み終えた。くらやみ(No Difference)と馬(My best acquaintances are those)についての言葉に、わたしがなにかを付け加えてはいけないといまは感じるので、本のおしまいのほうにある断片を引用しておくことにする。

「やさしいくらやみはどこまでも広がっている。境界線はない。正しさも誤ちもない。善も悪もない。幸せも不幸せもない。よりよくも、よりわるくもならない。あらゆる存在が溶け合いながらそこにある。あらゆるものが変わり続けている。」


# by suigyu21 | 2019-12-01 13:37 | Comments(0)

鳥の声

鳥の声_c0127043_21034021.jpg
朝、晴れていて空が明るんでくると、いつも上方の決まった方向から金属性の大きな音が聞こえてきて、覚醒モードになる。隣りの集合住宅の最上階に住んでいる人がデジタル音を好んで出しているのかと思っていたが、半分眠りながらよく聞いていると、それは一羽か二羽の鳥の声だった。

鳥の声は隣りの集合住宅の壁に反射して聞こえてくるのだと思う。そのことがわかれば、角度から鳥がどこにいるのかもわかる。確かにそこには大きな木が一本あるのだ。それにしてもたった一羽のあの声の大きさはどうだ。鳥も朝だと元気があるのか、あるいは大きな声を出さなければならない必要があるのかもしれない。鳥の生態を調べてみよう。

バリ島で泊まった部屋のすぐ近くに大きな木があった。夜明けとともにその木で眠っていたらしいたくさんの鳥がいっせいに鳴きだして、とても眠っていられないほど騒々しい。でもこちらが起きて朝食を食べるころにはどこかに飛んでいってしまって、翌朝まで静かになる。どこでどうしているのかな。

歩いているとき、木から鳥の鳴き声が聞こえることがあるけれど、鳥の姿を見つけるのはむずかしい。ときどき静かに木から姿を見せている集団がいる。思わずシャッターを押してからしばらく見惚れた。


# by suigyu21 | 2019-10-01 21:06 | Comments(0)

キミは誰ですか?

同年代の女性の友人に会いに行った。横浜のはずれにある彼女の家に到着すると、結婚して遠くに行ったはずの娘がいる。私が知らないだけだったのか、生まれたばかりのような小さな男の子を抱いている。赤ん坊が男の子であることになぜだか疑いはない。久しぶりに会ったので、あれこれ話していると、赤ん坊が手をのばして、私のところに来たがっているのみたいだった。おいで、と両手を差し出して抱いてみると、不思議なほどに手足が長い。赤ん坊の体としてはバランスが悪いなあ。ためしに彼の長くまっすぐな脚を伸ばしてみると、ほとんど私の脚とおなじ長さまでどんどん伸びていく。キミは誰なの? と思った一瞬ののちには丸々としたふつうの赤ん坊に戻っていた。そして、かわいい。

午後の明るい光に満ちた林を歩いていく。はじめてのところだけれど、なんとなく懐かしい気持ちがする。ここまでどうやって来たのだろう。向こうから古い知り合いの彼が歩いてくる。以前より若くなったみたいだ。微笑みあってから、いつもそうするように彼の右手を握ると、あたたかい。そしてそのまま二人で歩いていく。歩きながらときどき彼の目を見るだけで、なにも話さない。あれ? キミはとっくに死んだんじゃなかったけ? と思いながら、でも手を離さずにゆっくりと歩いていく。

一晩のうちに見たふたつの夢のことをこうして書いてみると、なんだかばかばかしい感じがしてくる。脳内の出来事なのに、存在しないはずの赤ん坊の脚がするすると伸びていく感触と、死んだはずの彼の手のあたたかさが、目覚めたあとも肉体の感覚として残っているのがなんとも不思議で、そのために夢をずっと覚えている。
# by suigyu21 | 2019-06-01 20:48 | Comments(0)

光と影と

外出するとき、天気がよければカバンに小さなデジカメを入れる。スマホで写真を撮る人が増えたので、すでに絶滅したであろうスマホよりも小型のカメラだ。カメラを持っていると、撮るべき被写体がちゃんと私を呼んでくれる。歩みをとめて撮るのは風景の一部分が多い。生物のように動いているものは、シャッターチャンスを見極めるのがむずかしい。ときにそのチャンスに恵まれることはあるけれど、シャッターを押したときにはすでに遅いことが多い。つまり、下手、なのだ。

図書館の裏に鯉の池がある。色の派手なのや地味なのや、大きな鯉がそこで生きている。通りがかったときに、岸の近くに群れていたので、写真に撮ってみた。カメラのモニターで確かめると、いい感じだった。次にそこを通ったときには快晴だったので、鯉が近くに来るのをしばらく待って、また撮った。鯉は人の気配で寄ってくるようにも思える。ずっと人間の近くで生きているのだものね。何枚か撮ってからモニターで確認すると、よく写っていない。前に撮ったときは曇っていたので、きょうのほうがよく撮れそうな気がしていた。私の眼では水の中を泳ぐ鯉たちはちゃんと見えていたけれど、水が太陽からの直射光を反射しているために、カメラでは水中はよく写らないのだった。鯉を撮るなら曇の日にするべきことをまなんだ。そして、そのときから太陽光というものをきちんと意識するようになった。

そんな観察眼がとらえた光と影の一枚をここに載せよう。近くにファミリーレストランがあり、よくその前を通る。レストランは二階にあり、建物の下の一階は駐輪場になっていて、なぜか床は緑色に塗られている。午後の太陽の光がどこかの隙間から緑色のコンクリートの床に届いていた。その端に、レシートが落ちていて、少し湾曲している。その影がくっきりとある。ただそれだけの写真だが、立ち止まってシャッターを押した。光と影が作る偶然の一瞬を自分では気に入っている。見てもらった少数の友人たちは、これはなに? とか、意味不明、とか言っている。

光と影と_c0127043_19563006.jpg

# by suigyu21 | 2019-02-24 20:00 | Comments(0)