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水牛だより

赤と緑と

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撮ったそのまま。
もう少し工夫が望まれる。。。けれど、そのままで加工はしない。
# by suigyu21 | 2011-02-03 20:19 | Comments(0)

赤い花なら

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# by suigyu21 | 2011-02-02 20:12 | Comments(0)

愉しみ 18(2010.11.25)

かわいいビンに入ったリモンチェッロがありますよ、と電話口で彼が言う。

そうだ、二週間ほど前にイタリアンレストランでいっしょに食事をしたときに、最後にリモンチェッロを飲んだのだった。その場にいた四人のうち、私以外は男性で、それなのに食後酒を飲むと言ったのは私だけだった。ショットグラスで出て来たリモンチェッロを三人に強要して一口ずつ回しのみをした。しようがねえなあ、と言いながら飲んでる人もいたけれど、一杯のお酒をみんなで味わえるのはいい。お茶やコーヒーではこうはいかない。

リモンチェッロはアルコール度数の高い甘いリキュールだ。冷凍庫に入れておくと、凍らずにとろりとなる。それを小さなショットグラスに注いで、食後にきゅっと飲む。食べたものの油をとかすとか、消化を助けるとか、いろんな効能があるらしいが、薬ではないし、おなかがいっぱいでもとてもおいしく飲める。食後でなくてもおいしい。

もともとはレモンの産地である南イタリアで、自宅用に作られていたものだという。イタリアからヨーロッパ各地に広まり、そして日本でも手に入るようになったのは、きっとおいしいからというのが第一の理由にちがいない。

材料はレモンの皮と砂糖とアルコールだけ。まずレモンの皮の成分を強いアルコールに浸出させる。すっかり黄色の成分をしぼりとられて白く色あせたレモンの皮を取り出し、そこに砂糖を溶かしたシロップを混ぜて少しねかせれば出来上がる。作るのは意外にかんたんなようだ。自宅用だったことはそのかんたんな作り方からも理解できる。イタリアにはグラッパという食後酒もあるが、これは自宅ではとうてい作れない。

レストランでそこの自家製のリモンチェッロを飲んだときには、フレッシュなレモンの香りにやられた。もちろん日本で。あれこれ調べてみると、本家のナポリ湾のアマルフィー海岸や、カプリ島などで採れるレモンは日本のレモンの三倍もある大きさで、果汁でなく果皮を使う種類らしい。ちなみにシチリア産のレモンは果汁用。

香りも成分も違うのだろうけれど、日本産のレモンかあるいは柚子の皮で一度は作ってみたいと思いつつためらい続けているのは、皮をむかれたあとの果実十個ほどの使い道がピシリと定まらないから。ジュースにしてしまえばいいのかな。ともあれ白いふにゃふにゃのレモンがシンクのあたりにいくつもころがっているのは困ります。

電話で話した次の週に彼と会って、そのかわいいビンのリモンチェッロをもらった。ビンにはカプリ島のレモンの絵が描いてある。イタリアの国のかたちをしていて、下はハイヒールの底そのものになっているから、ビンはちゃんと立つ。飲んだあとは花を挿すのもよろしいとの注釈もついている。

その場でぐいっと飲んでもいいよと言われたけれど、冷えてないものね、そうはいきません。冷凍庫に一日ほど格納して、とろりとなったところで、きゅっ、と。すっきりとおいしい。今度彼と会うときには、もっと大きいサイズのビンがほしいと言おう。
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# by suigyu21 | 2011-01-22 21:19 | Comments(1)

愉しみ 17(2010.9.25)

「影の反オペラ」初日七月十六日の開場時間午後六時三十分直前のシアターに入ってみる。もちろんまだだれもいない。エアコンであらかじめ冷やされてひんやりとしている。ほんのりと照明の当たったステージが斜めにシアターのほぼ半分くらいを占めている。これから花ひらこうとしている夢をこの場所はまだ知らない。だってさっきまでのあれは稽古だったのだから。準備は完璧に終わっていて、でもまだ始まっていない、という短い特別な時間の劇場の空気はいつだってすっきりと透明で、外の空気とはまったく別のものだ。これを味わえるのが制作の醍醐味かもしれない、とにんまりしてしまう。

モノオペラをやりたいと言われたとき、シアターイワトでなら出来ると思った。ほかのところではまず無理でしょう。だって、「やりたい」というだけで、まだかたちはなにもないのだから、どういうものが出来上がるのかきちんと説明なんか出来ないし、そうと知っていて受け入れてくれるところがあるとは到底思えなかった。

平野甲賀さんデザインの「めくって読む」本のような斬新なチラシには三人の出演者の名前が小さく書かれているだけで、スタッフの名前はひとりもクレジットされていない。どうしてですか? 何か意図でも? と聞かれてはじめて気づいたが、そのときにはまだ何も決まっていなかったのだった。実際には出演者とスタッフ全員あわせても十人に満たない少人数で、舞台のかたちもほんの少しの演出も照明も、稽古しながら考えを出し合って、ゆっくりとあるべきように出来上がった。そこに自分という痕跡を残そうという人はいなかった。

いつもどんぶり勘定でザルのように抜けているにしても、お金の問題は避けて通れない。一日の定員は八十人だから三日で二百四十人。入場料の合計は最大で百二十万円だ。これでは赤字ということは最初からはっきりしていたので、アサヒビール芸術文化財団と朝日新聞文化財団からの助成はありがたいことでした。感謝の気持ちとともに、次の機会にもぜひにとお願いもしておきたい。

最終日の公演が終わって、ロビーでCDなどの売り上げを計算してから劇場を覗いてみたら、すでにステージは解体作業に入っていた。夢はおしまい。

夢から醒めて、次にシアターイワトを訪れたのは七月三十日。斎藤晴彦さんの古希のお祝いの日だった。七十歳になったばかりの斎藤さんはみずから半七捕物帳の一編を朗読し、エノケンの歌をうたった。この夜のシアターイワトは隅から隅まで斎藤さんのもので、「影の反オペラ」のときのかけらもそこにはなかった。劇場は毎日が新しい夢なんだな。
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# by suigyu21 | 2011-01-22 21:18 | Comments(0)

愉しみ 16(2010.7.25)

春に柴田南雄作曲「優しき歌」(詩は立原道造)をはじめて聞いた。歌は波多野睦美、ピアノは高橋悠治。好きな詩に音がついていると、音はないほうがいいと感じることが多いけれど、これは違和感がなかった。詩人と作曲家が同時代の人だったことと関係があるのだろうか。

立原道造の詩に出合ったのは高校のときの現代文の教科書だった。『萱草に寄す』のなかの一編「のちのおもひに」が載っていて、その日本語をとてもきれいだと思った。中学二年のときに信州に移り住み、毎日乾いた空気を吸っていたから、私の体のいくぶんかはその空気で出来ていたからだろう、言葉の背後の空気の気配がすっと入ってきたのだ。

教科書には「のちのおもひに」と並んで、三好達治の「甃のうへ」も載っていた。上級生の文学少女から、三好達治に手紙を出したら返事が届いてしかもそれが巻紙だったという話を聞いて、すごいなあと思った。でも詩は「のちのおもひに」のほうがずっといい。

大学に入って東京に舞い戻った。同じ年に父親はまた転勤になり、もう信州に帰る家はない。昼間は友だちと楽しく都会を満喫しているが、ひとりになると恋しいのは信州のあの空気であり、あの空気をつくる自然だった。そんなときに開く本は立原道造の詩集、あるいは北杜夫の小説『幽霊』ときまっていた。『幽霊』には私の知っている風景が精神性そのままに描かれていて、それがストーリーよりも重要だったのかもしれない。

立原道造は二十四歳という若さでとっくに死んでしまっていたが、北杜夫さんはベストセラー作家として大活躍中だった。あるとき三好達治からの巻紙の返事のことを思い出して、深く考えもせず、手紙を書いた。何を書いたのかまったく覚えていない。まあ覚えていない程度のミーハーな読者からのファンレターだったにちがいない。お返事ください、とは書かなかったと思うけれど、でも、来たのですね、返事が。巻紙ではなくはがきだったけど。最初のは官製はがきだったが、そのうち会合などの出欠を知らせる返信用のはがきが使われるようになった。印刷してある返信用の住所を黒く塗りつぶして、その横に私の住所と名前が書いてあるのだ。いまならエコといえるのかもしれないが、そんなことをする人はまわりに誰もいない環境だったから、驚いて、そして笑った。巻紙よりはこちらのほうが自分にはふさわしいと思えたこともよく覚えている。

『幽霊』は一九六〇年に中央公論社から出版されたが、一九五四年、北さんが二十七歳のときに文芸首都社から自費出版している。テキストは少し違う。北さんの手元にはもう二冊しかないという自費出版のその二冊のうちの一冊がサイン入りで私のものになったとき、うれしかったのはもちろんだが、貴重なものをもらった責任も感じた。ずっと大事にして、死ぬ前には若い誰かに手渡そうと心に決めたのだった。そろそろその時期だけれど、受け取ってくれる人はどこにいるのかな。
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# by suigyu21 | 2011-01-22 21:16 | Comments(0)