日曜日の病院は人が少なくて静かだ。病気のひとたちにはあれこれ不平不満はあるみたいだけど、基本的には休日でもきちんとケアされている。帰り道、数人しか乗っていないバスのなかで、ガザではこいういう病院も爆撃されていることを思う。
病院の霊安室はたいてい地下にあって、霊安室というよりは死んだばかりの死体置き場という感じが濃厚にただよっていることが多い。でもそうとばかりはいえない。埼玉県立小児医療センターの霊安室は病院の最上階にあるという。そこでは外の光が山本容子さん作のステンドグラス「星めぐりの歌」を通して部屋に満ちている。明るい光に包まれた亡骸から、ちいさな人のたましいは軽々と空をめざし、どこかで世界と混じりあうのだろう。こんなふうに、たましいの安らかさを願う明るいひかりがもっともっとあってもいいのにと思う。
パレスティナの子どもたちが腕に油性ペンで名前を書かれている映像を見た。彼らが死んだときにすぐ身元がわかるように、という理由だった。たましいの安らかさなど、どこにもない。
水牛楽団のレパートリーに「パレスティナのこどものかみさまへのてがみ」という歌があったが、そのころより事態がよくなっているとはとうてい思えない。世界は分断を深め、武器は威力を増している。どこかに明るさはあるのだろうか。
日暮れから顔を出しはじめた満月を中天まで見届けながら、春に亡くなった友人をふと思う。この美しい満月を彼が見ることはぜったいにない。しかし、わたしが見ている空間のどこかに彼のスピリッツは存在しているのだから、別世界にいながらいっしょにいるのだと思うことにした。
十月はたそがれの月。その最後の日曜日の夜、満月を眺めながら、わたしは東京に生きていた。
「塩食い会」の願いは、次の世代の人たちに藤本さんの著作を読んでもらいたいという、とても単純で素朴なものだったと思う。最近、榎本空『それで君の声はどこにあるんだ? 黒人神学から学んだこと』(岩波書店 2022)を読んだ。この本のなかに、『塩を食う女たち』に藤本和子さんが書いたことばが出てくる。「塩食い会」の願ったとおりだ。あまりにもうれしかったので、その箇所だけ引用しておきたい。かいつまんで本の内容を紹介するよりずっと本質が伝わると思うから。
イエスの福音とは、黒人が黒人として自らの存在を受け入れることだ。創造の神は私たちを愛しているのだから。自分を憎むのはやめにしよう。黒い肌を十分に抱きしめ、誇りにしよう。黒いことは美しいのだ。ジェイムズ・ブラウンが歌ったではないか、それこそがイエスの解放の業(わざ)なのだ。黒人の信仰を指して、「頑固なまでの生の肯定」と書いたのは藤本和子だが(これもまたなんと生き生きとした言葉だろう)、それを徹頭徹尾、神学の言葉で表現したのが、コーンという神学者だった。黒人神学の「黒人」はマルコムから、「神学」はマーティンから。コーンはよくそう言っていたが、当時のアメリカ社会にあってそんな混淆は、私たちが想像するよりもずっと奇妙で、危うく、向こう見ずな行為であったに違いない。
黒人を人間以下の存在として、社会の底に留め置くという白人優越主義の構造は、四〇〇年間、その表情を変えながら、温存されてきた。デュボイスがいたにもかかわらず、フレデリック・ダグラスがいたにもかかわらず、ゾラ・ニール・ハーストンやアイダ・B・ウェルズがいたにもかかわらず、公民権運動やブラック・パワー運動があったにもかかわらず、オクタヴィア・バトラーやラルフ・エリスンがいたにもかかわらず、ファニー・ルー・ヘイマーやエラ・ベイカーがいたにもかかわらず、ブラック・ライヴズ・マター運動があるにもかかわらず。いや、そんな認識可能な名をもたない、黒人たちの美しい生の実験の瞬間が無数にあったにもかかわらず。
偶然生き残った人びとは、藤本和子が黒人の経験を形容して使った言葉を借りるなら、「生きのびる意志を持続」させてきた者でもあるからだ。それは偶然であり、しかし彼らが掴み取った必然である。運命であり、しかし彼らが受け入れた使命である。だからこそ、生き残りという言葉で自らを呼んでいくことには、人間の命に厚顔無恥にも優劣をつくりだす権力へ抵抗するような尊厳に溢れた響きがあるそ、何よりも、生き残ることが叶わなかった人びととの、肉体的で、霊的、歴史的な結びつきを手繰り寄せるような祈りがある。
警察の暴力の生き残りである黒人は、リンチの生き残りでもあり、奴隷制の生き残りでもある。そうやって生き残りとしての自己を掴み取ることで生きのびながら、私が出会った黒人たちは、先に死んでいった者たちとの関係を築き、築き直した。そんな手製の特別な系図が、今もなお死の隣にある彼らの生を支えている。そして、ことキリスト者にとって、生き残ることの叶わなかった人びとと生き残った人びとが、細やかな織物のように編み込む系図は、そのまま、白人キリスト教が押しつけたキリストを飛び越えて、二〇〇〇年前のイエスまで悠々と遡っていく。そうやって過去との特異な関係を取り結ぶという終わりのない行為を、信仰を呼ぶのではないか。
『塩を食う女たち』が出版されたとき、榎本さんはまだこの世に登場していなかった。ふたりの年齢は50歳ほどちがう。それでもこうして、ことばは響き合う。感度の高いアンテナと、それを受けとめるナイーヴな感受性とはふたりに共通しているみたいだ。榎本さんの翻訳書『誰にも言わないと言ったけれど-黒人神学と私-』(ジェイムズ・H.コーン著 新教出版社 2020)も読んでみようと思う。
二〇二〇年の四月ごろ、フェイスブックでのある企画を知った。友人からバトンがまわってきたのだ。それは「読書文化の普及に貢献するためのチャレンジ」「7日間ブックカバーチャレンジ」というもので、好きな本を一日一冊、本についての説明なしに表紙だけの画像をアップする。期間はひとり一週間だから、全部で七冊の表紙だ。ひとつ載せたら、誰かにバトンをまわすという決まりだった。
フェイスブックにアカウントは持っているが、「お友達」の投稿をときどき読むだけで、それはもっともダメなメンバーだといわれている。でもこの「チャレンジ」はおもしろいと思い、参加した。表紙のデザインとタイトルのユニークさを考えて、身の周りにあった七冊を選んで表紙の写真を載せた。本の表紙は、きちとんとデザインされているから、整ったかたちのなかにその本の情報がすべて入っている。中身は読んでみないとなんともいえないとしても、自分にとっておもしろいかどうか、ある程度のことは推察できる。
「本についての説明なし」というのがこのチャレンジの意図する重要なお約束で、私はそこにもっとも興味をひかれた。しかし、意外にも多くの人たちは、本についてのあれこれをしつこいくらいに書いているのだった。決まりごとは読まない人が多いのかな。あるいは本については、どうしても内容を語りたくなるのかもしれない。
この経験が楽しいものだったので、本の表紙だけの写真をときどき撮っている。そのなかから、何冊かを選んでみた。ランダムに選んだつもりだが、ある種の傾向はあるかもしれない。もちろん本についての説明はありません。
写真で見ると、文庫も単行本も同じサイズに見える。これではダメだな。