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水牛だより

にっこり笑うという技術

必要があって、水牛通信のころのことを少し調べる機会があった。1980年代のことだ。そのころから現在まで持ち続けている考えのタネのようなものはあるにしても、当時の現実はすべて終わったことなので、調べる楽しさはなにもなかった。それに自分たちの活動をアーカイヴしておこうという発想は誰にもなかったと思う。特に記録を残すこともしなかった。そういうことは後から来る人が熱量をもって調べるほうがいいと思う。そういう人がもしもいたらありがたいしし、いないならそれまで。

『トーヴェ・ヤンソン ムーミン谷の、その彼方』(2025年 筑摩書房)は冨原眞弓さんによるトーヴェ・ヤンソンの伝記だ。あるとき英語版のムーミンと出合って惹かれた冨原さんは、スウェーデン語を学んで、ヤンソンの小説を翻訳した。それは8巻のトーベ・ヤンソン・コレクションとして筑摩書房から出版されている。そのなかの一冊『誠実な詐欺師』は自ら改訳してちくま文庫に入っている。そして資料を集めて伝記を書いた。トーヴェ・ヤンソンと冨原眞弓というふたりの真髄(イデー)が、人間という生きもののサイズで満ちている。あとがきから引用する。


 ともかく、ヤンソンさんは旅立った。二〇〇一年、宇宙の旅どころか、質料も形相もない、好きだった「真髄(イデー)」すらも存在しない、ほんとうに未知の世界へと行ってしまった。軽い手荷物すらもない、魂ひとつの、かろやかな旅だ。
 かくて、ときにずしりと重く深く心の奥をざわつかせ、ときにやさしくなめらかに心の襞をふるわせる、言葉たちや色素たちがさまざまに交叉しあい絡みあって描きだす軌跡が、わたしたちのもとに残された。それらの軌跡にどのような意味をあたえるか、あるいはあたえないかは、ひとりひとりの感受性と志向性にゆだねられているのだと思う。
 世界に先駆けてスウェーデン語から日本語への翻訳というやりがいのある、けれども原稿と結果とにひとりでむきあわねばならない仕事のなかで、わたしがほんの一瞬かいまみた芸術家トーヴェ・ヤンソンの真髄(イデー)を、ほかのだれでもない、このわたしが自分の言葉でいいあらわす。つまり、ヤンソンの人生と作品とをあわせてひとつの物語として語りたい。これが本書の目的である。


冨原眞弓さんはこの一冊の原稿を書き上げて、初校を見ることなく亡くなったという。それはとても残念な出来事だけど、本はこうして完成して、まだ生きているわたしは何度でも読むことができるのだ。冨原さんが情熱をもって入手した「ガルム」という反権力の雑誌がある。フィンランドで1923年から1953年まで発行されたスウェーデン語の雑誌でヤンソンはその主席画家だった。1923年創刊号の美しい決意表明文もこの冨原さんの本で知った。以下はその一部。


『ガルム』は愉しい雑誌となろう。愉しくあるには、勇気がいる、このフィンランドでは。『ガルム』はその勇気をふりしぼる。多くのひとがいやがっても、人間とはそういうものだ。とりわけ、この地では。それでも『ガルム』は愉しくやっていく。
『ガルム』は自由に、はばからず、もの申す雑誌となろう。
『ガルム』は在フィンランドのスウェーデン民衆に教えたい。にっこり笑うという技術(すべ)を。みずからの弱さを笑い、相手がたの愚かしさをも笑う。しかし、なによりもまず、人生は善きもので、根っこのところは健やかだと思えばこそ、にっこりと笑う。そういう技術を教えたい。いつだって太陽はふたたび輝くのだから。


# by suigyu21 | 2025-11-01 19:10 | Comments(0)

めしは天

新米が売られているのを見る季節になった。しかし高騰した値段はほぼそのままで、安くなってはいない。米を作る人と食べる人とのあいだにどのようなことがおこなわれているのか。記事などを読んでもよくわからない。当事者以外にはわからないようになっているようだ。米を作る労働のしかたはむかしとは違っても、流通の構造はかわっていないのだろう。より強化されているのかもしれない。

そんなことをふと思う夜には、金芝河の「めしは天」を読む。

 めしが天です
 天がひとりのものでないように
 めしはたがいにわかち食うもの
 めしが天です
 天の星をいっしょに見るように
 めしはみんながともに食うもの
 めしが天です
 めしが口にはいるときは
 天をからだにむかえるもの
 めしが天です
 ああ
 めしはすべてたがいにわかち食うもの



# by suigyu21 | 2025-10-01 22:35 | Comments(0)

おいしくても失敗しても

ときどき食べもののことを書いたりしているが、料理が好きというわけではないし、ましてや得意というわけでもない。でも食事は毎日のことなので、自分の好みや癖が出る。こどものころは外食は特別なことだったし、食べものにあまり関心がなかったから、味覚が完成するのが遅かったと思う。大学生のころ、友人とはじめて食べた焼肉でない韓国料理はまったくの非日常の味でほんとうにびっくりしたことを懐かしく思い出す。

料理の本を見るのが好き。おいしそうだなと思っても、作ってみるのは一冊につきふたつくらいで、あまり身につかないけれど、おいしそうな写真を見ているだけでいいのだ。実際には、ちょっとしたコツ、みたいなものが役に立つ。プロはいつも安定した味を求められるから、レシピは大事だろう。自分にとってはプロのレシピはひとつの目安なので、適当に作るたびに味は変わる。材料がずべてそろうとも限らない。きょうはおいしい、きょうは失敗だな、と味の幅が広いのだ、よく言えば。

あまり手をかけずに、素材の味を楽しみたいと思う。卵なら半熟に茹でるか目玉焼きに塩を少しかけるだけ。もう30年以上も前のタイで食べた人生でもっともおいしい卵焼き。バンコクではなく、どこか東北の田舎の町だった。泊めてもらった家では、朝ごはんは庭で食べるのだった。炭火のコンロの上には中華鍋が乗っていて、油がカンカンに熱せられて煙が出ている。そこにナムプラーを入れて溶いた卵を一気にいれると、鍋肌からスフレのようにふくらむのだ。両面に焦げ目がついたら、あっという間に出来上がり。そのへんから取ってきたハーブといっしょにごはんの上に乗せて食べる。外で食べるのがおいしさの一端を担っていたのは確かだが、どこのだれの家だったのか覚えていない。ふんわりふくらんだ卵焼きの姿だけが目に浮かぶ。

東京の集合住宅のキチンではこれは再現できない。フライパンはコーティングされていて、油をあまり高温に熱することができないし。それで、卵にはナムプラーで味をつけ、なにかひとつ野菜を加えてオムレツ風に焼くことにしている。ゴーヤが合う。大葉やバジルもなかなかよい。ゴーヤなどの硬いものは先に炒めてから卵をいれる。大葉などは卵に加えていっしょにフライパンに流し込む。


# by suigyu21 | 2025-09-01 15:20 | Comments(0)

夏はウリ類でエネルギーをチャージする

夏の野菜でもっとも特別なもの、それはスイカだと思う。ごくふつうの野菜や果物売り場では夏にしか売っていないし、食べるのも夏に限る。ことしは大きなスイカを友人が送ってくれたので、暑い夏が豊かにはじけた。大きなスイカのまんなかに包丁を差し込むと、そこから自然にふたつに割れていくのを見るのも久しぶりの快感だった。こどものころは何人かで廊下に腰掛けて、井戸水で冷やして切り分けたばかりのスイカをかじり、タネをフッと口から庭に吐き出すのがよかった。おとなになって知った食べかたもある。まずスイカを半分に切る。切り口は平らだから真ん中を少しスプーンで削りとって、まずはそれにミネラルたっぷりの塩をかけて食べる。それから、穴の部分に氷をいれ、ジンを少し注ぎいれる。そしてやはりスプーンで少しずつ削りとりながら、ジンをまとった実を食べていくのだ。氷もジンも足りないなと感じたら足していく。

これがまあ、なんともいえず香り高いおとなの味で、やみつきになるのです。ジンはアルコール度数の高いお酒だけど、スイカといっしょだと酔っぱらわない。身も心もすっきりする。いまはふたり暮らしだから丸のままのスイカは買えない。ぐい飲みに氷とジンを入れ、角切りにしたスイカをちょっと浸して食べる。豪快さには欠けるが、おいしさは変わらない。

野菜売り場で白ウリを見たら、ひとつ、買う。サンドイッチ用のパンも買って、白ウリのサンドイッチを作る。ウリは縦半分に切り、スプーンでタネを取る。実を繊維を絶つように8ミリから1センチくらいの厚さに切り、塩をふって少し置いておく。さて、パンだ。このサンドイッチはバターがおいしいらしいのだが、なんといっても冷蔵庫に入っているバターは硬くてすぐにはパンに塗りにくい。だからいつも塗りやすいマヨネーズを使ってしまう。パンに薄くマヨネーズをのばして、ねり芥子をところどころに塗る。からし入りのマヨネーズもちゃんと売っているのは知っているけれど、からしは均等でないほうがおいしい気がする。10分もするとウリからは水分が出ているので、キッチンペーパーかなにかで適当に水分を拭き取り、パンに並べていく。ウリは半月形になっているから、できるだけパンに隙間を作らないように並べていくのはパズルのようで楽しい。上からパンを重ねて、半分に切れば出来上がり。ウリのそこはかとないほんのりした味わいと噛み心地がすばらしい夏の味。マヨネーズでなくバターだったらもっとおいしいのかもしれない、というか、それが本来の味なのだろう。でもいいんだ。マヨネーズで満足している。

白ウリのかわりに出盛りのキウリで作ると、これもまたしゃっきりとした夏のサンドイッチになる。作りかたは白ウリとおなじ。ただしキウリは縦に3ミリくらいの薄さに切る。塩をしたら、あとは二枚のパンに隙間なく並べて、キウリを中にパンを重ねるだけ。切り口もきれいで、白ウリよりは単純な味だが、かなりいけます。ハムやたまごをいっしょに挟むのもいいけれど、キウリだけだとそのもののおいしさがしみじみと感じられると思う。別にハムエッグを添えればいいのだし。


# by suigyu21 | 2025-08-01 18:13 | Comments(0)

夏のトマト

おそらく一年中ハウスで栽培されているのだろうけれど、夏の野菜はやはり夏がおいしい。なかでもトマトは本来のトマトの青くささが強く感じられる。そんな夏のトマトでトマト丼を作る。真夏だから火を使わないのがいい。

大きめのトマトを小さめに切ってボールに入れる。いまなら新生姜をみじん切りにして、多すぎるかな?と思うくらい、トマトのボールに加える。塩を適当に入れる。塩味がきちんとつくくらいがおいしい。全体をかきまぜて、ボールごと冷蔵庫で冷やしておく。
トマトが冷えたころに、あたたかいごはんの上に、白いごはんが見えないくらい真っ黒になるまで、焼き海苔をちぎってのせる。冷蔵庫からトマトの入ったボールを出してみると、塩でトマトから水分がたくさん出ているはず。その汁ごとすべてをごはんにかけて、混ぜあわせながら食べる。

何年も前に見てためしてみたレシピだが、これまでに何度作ったかわからない。正式な(?)レシピから逸脱しているかもしれないが、こういうものこそ家でしか食べられないと食べるたびに思う。トマトはつめたく、ごはんはあたたかいほうがおいしい。完熟でもいいが、お尻に青いのがちょっと残っているくらいのトマトがおいしいと感じる。そしておいしさの鍵を握っているのは海苔です!

とはいうものの、そもそもごはんがなくては話にならない。去年収穫したお米はいったいどこに消えたのか。どう考えてもおかしいと思う。


# by suigyu21 | 2025-07-01 22:04 | Comments(0)