二〇二〇年の四月ごろ、フェイスブックでのある企画を知った。友人からバトンがまわってきたのだ。それは「読書文化の普及に貢献するためのチャレンジ」「7日間ブックカバーチャレンジ」というもので、好きな本を一日一冊、本についての説明なしに表紙だけの画像をアップする。期間はひとり一週間だから、全部で七冊の表紙だ。ひとつ載せたら、誰かにバトンをまわすという決まりだった。
フェイスブックにアカウントは持っているが、「お友達」の投稿をときどき読むだけで、それはもっともダメなメンバーだといわれている。でもこの「チャレンジ」はおもしろいと思い、参加した。表紙のデザインとタイトルのユニークさを考えて、身の周りにあった七冊を選んで表紙の写真を載せた。本の表紙は、きちとんとデザインされているから、整ったかたちのなかにその本の情報がすべて入っている。中身は読んでみないとなんともいえないとしても、自分にとっておもしろいかどうか、ある程度のことは推察できる。
「本についての説明なし」というのがこのチャレンジの意図する重要なお約束で、私はそこにもっとも興味をひかれた。しかし、意外にも多くの人たちは、本についてのあれこれをしつこいくらいに書いているのだった。決まりごとは読まない人が多いのかな。あるいは本については、どうしても内容を語りたくなるのかもしれない。
この経験が楽しいものだったので、本の表紙だけの写真をときどき撮っている。そのなかから、何冊かを選んでみた。ランダムに選んだつもりだが、ある種の傾向はあるかもしれない。もちろん本についての説明はありません。
写真で見ると、文庫も単行本も同じサイズに見える。これではダメだな。





月刊のミニコミ「水牛通信」を出していたころ、その編集や執筆を担当した人のなかで、1938年寅年生まれの人が多かったのはどういう偶然だったのか。編集委員会(自称)には津野海太郎さん、平野甲賀さん、鎌田慧さん、高橋悠治さんがいて、茅香子さんと林のり子さんは原稿を書いてくれたり、いろんなイヴェントを助けてくれた。彼らの一年下には藤本和子さんと片岡義男さんがいる。戦争に向かうころに生まれたこどもの数は少なかったことを思えば、小さな集団としては、とても偏っていたことに間違いはない。
閑話休題。
『ひとりのときに』を読むと、こういうふうに年齢を重ねられたらいいなと思うし、平易な書きかたのせいか、案外かんたんにできそうな気がしてしまうけれど、実際にはそうはいかない。たとえば、朝日新聞社をリタイアしてから続けている英文翻訳塾を、コロナ禍でもずっと対面でおこなった事実ひとつをとっても、そこにゆるぎない強さを感じる。声高になにかを主張したりしないこの強さは、茅香子さんのパズルの強さと根はおなじなのではないかと思ったりする。オセロが流行していたとき、勝ち抜き大会で東京都の代表になるくらい強いのだ。ひとりで出来るパズルをいくつかおしえてもらって、いまもときどきはまるが、楽しむわりに、わたしの成功率はとても低い。だから茅香子さんのその強さが特別であることはよくわかる。
98字で、という制約を自分でつくって日記を書くのも、ひとりのときにふさわしい強さだ。ウエブではずっと読み続けている。ほぼリアルタイムの楽しみだ。本になって2021年という一年分をまとめて読むと、具体的なことは書かれていないけれど、茅香子さんにとっての私的な出来ごとがあると同時に、その年にわたしが経験したことと重なる出来ごともあって、同じ時間を生きていたことにしみじみとした。もっともっとひとりで遊ぼう、とも思った。
80年代の水牛通信のころは田川さんを含めて、みんなと頻繁に会っていた。連絡手段は手紙か電話だけだったから、なににつけても会う必要があったのだ。そのころの田川さんの住まいは上野毛だった。田川さんの前立腺肥大の手術に付き添ったことがあった。それまでいっしょに暮らしていた女性と別れたばかりだったので、手術室のそばの部屋で、手術が終わるのを待って結果を聞く役目を引き受ける適当な人がいなかったから、病院も近いことだし、と引き受けた。手術は無事に終わった。二日くらいたって、お見舞いに行ってみると、同じ病室に入院している人の中心になって、おもしろおかしい話をしているようだった。入院二日ですでに病室の主のようになっていた。
上野毛の部屋も何度か訪ねた。太った猫が二匹いた。彼女たちに向かって、「かわいいね」とか「きれいね」というと、その言葉がわかるらしく、とたんに得意そうな顔と態度になる。縦に並べられているLPの背中は猫たちの爪研ぎに使われて、ボロボロ。なにのLPやらまったくわからない。おいとまするころには私の衣服には猫の白っぽい毛が無数についていたが、飼い主の田川さんの衣服にはついていないのは不思議だった。猫や犬を飼っている人はみなそうなのだろうか。
田川さんの服装はいつも目立っていた。派手な色をたくさん身につけている。はじめて会うひとはギョッとするかもしれないけれど、すぐに慣れて、それが田川さんなのだと思うようになる。靴は左右おなじのを履いていたと思うが(左右で色のちがう靴を履いていたのはジョン・ゾーンだった)、ソックスは左右そろっていないこともあった。そのころの田川さんは、自分の着るセーターを熱心に自分で編んでいた。太い糸と太い針で、大きな目のメリヤス編みだけのアバウトな編みかただったけれど、前後の見頃や袖、襟周りなど、すべてが色違いの原色の組み合わせで、編んでいるときから、いかにも田川さんらしい雰囲気があった。太い糸と針なので出来上がるのは早く、出来上がったらすぐに来て歩くから、会った人はみな新しいセーターに注目して、何か言う。それがうれしそうだった。
毎朝、どうやって着るものを選ぶのかと訊いたことがあった。洗濯したものを重ねてあるやろ、その一番上にあるものを順番に着るだけや、とのことで、そういえばそうでなくては成立しないファッション、というか、組み合わせだったな。さすがに舞台監督の仕事のときだけは黒一色でまとめていたけれど。
当時、田川さんが仲良くしている女の人はだいたい20代中頃だった。田川さん自身は毎年歳をとるのに、入れ替わる女の人はいつも同じようなお年頃。モテていたのだろうけど、そのわりには入れ替わりの頻度が高かったのはなぜだろう。
田川さんはいつも次の予定が決まっている忙しい人だったので、会うのはふつうは2時間くらいだった。もっとも長くいっしょにいたのは、冬の旅のツアーのとき。斉藤晴彦さんと高橋悠治さんがステージに立って演奏する人で、田川さんとわたしはその他の業務を担当した。ステージ以外ではわりと神経質な斉藤さんをいつも何気なく気にかけていた田川さんだった。旭川の駅前で、小沢昭一さんと偶然に出会ったときには、双方の全員がみな少し興奮して、その場だけ花が開いたようにはなやいだのもなつかしい。
冬になると、毎年深谷ネギをたくさんいただく。採れたてで水分をたくさん含んだ太い白いネギは、どうやって食べてもおいしい。白いところだけを柔らかく蒸して、塩とごま油で食べるのは、おどろきのおいしさだ。『ウー・ウェンの「ネギが、おいしい」』というレシピの本を買って、冬になるとそのなかのいくつかをためしてみている。蒸すのはこの本の最初に載っているのだ。醤油や味噌で炒めたり、素揚げにしたり、毎日のようにネギそのものをおいしく食べるのは冬のすばらしさだと思う。
今年はこの本のなかのネギうどんとネギ焼きそばに目覚めた。ネギをじっくりと炒めて醤油と黒酢で味をつける。うどんのときは炒めたネギに水を加えて煮立ててからうどんを入れる。焼きそばは味をつけたネギと炒め合わせるだけ。読んだだけではあまりおいしそうに思えず、これまでためしたことがなかったのだが、やってみたら、とてもおいしい。ネギの味が全体にひろがっていて、黒酢がそれをまとめている。深谷ネギは一本だけ炒める。うどん一個や焼きそば一個よりネギの量が多いので、それもおいしさの理由かもしれない。二人で麺ひとつで満ち足りる。
親族のあつまりのとき、メンバーのひとりだった就学前の男の子がアンパンマンのフィギュアをいくつか握りしめていた。誰が好きなの?と訊いてみると、ナガネギマン、という意外な答えがかえってきた。どんなキャラクターなのかよく知らないが、きっと少数派に違いない。こういうこどもが少数派のままにあまり苦労しないで生きていける世界であってほしい。
ミュラー--緑の草はどこにある?
思い出の世界のなかに。
もしわたしの心が流れる血液ならば
流れるそのすべてはわたしの顔だ。
「冬の旅」全体が、まさに春の歌である。
ことしはまだ一度も「冬の旅」をきいていない。よくないことだ。YouTubeにはたくさんの「冬の旅」がある。いろんなピアニストといろんな歌手。たくさんあるからといって、次々ときいてみるのがいいとは限らない。
「冬の旅」は24曲もあるので、きくたびごとに好みの曲がかわったりする。去年は「まぼろし」がとてもよかった。山本清多さんの、うたえる訳もよい。
美しい光に
魅かれ いざなわれて
まぼろしの光と
知りながら なのに
ああ 惨めすぎると
人は 身をまかせる
たとえ まぼろしでも
温かい家と 愛らしいあの娘の
たとえ まぼろしでも