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水牛だより

2011年 01月 22日 ( 6 )

愉しみ 18(2010.11.25)

かわいいビンに入ったリモンチェッロがありますよ、と電話口で彼が言う。

そうだ、二週間ほど前にイタリアンレストランでいっしょに食事をしたときに、最後にリモンチェッロを飲んだのだった。その場にいた四人のうち、私以外は男性で、それなのに食後酒を飲むと言ったのは私だけだった。ショットグラスで出て来たリモンチェッロを三人に強要して一口ずつ回しのみをした。しようがねえなあ、と言いながら飲んでる人もいたけれど、一杯のお酒をみんなで味わえるのはいい。お茶やコーヒーではこうはいかない。

リモンチェッロはアルコール度数の高い甘いリキュールだ。冷凍庫に入れておくと、凍らずにとろりとなる。それを小さなショットグラスに注いで、食後にきゅっと飲む。食べたものの油をとかすとか、消化を助けるとか、いろんな効能があるらしいが、薬ではないし、おなかがいっぱいでもとてもおいしく飲める。食後でなくてもおいしい。

もともとはレモンの産地である南イタリアで、自宅用に作られていたものだという。イタリアからヨーロッパ各地に広まり、そして日本でも手に入るようになったのは、きっとおいしいからというのが第一の理由にちがいない。

材料はレモンの皮と砂糖とアルコールだけ。まずレモンの皮の成分を強いアルコールに浸出させる。すっかり黄色の成分をしぼりとられて白く色あせたレモンの皮を取り出し、そこに砂糖を溶かしたシロップを混ぜて少しねかせれば出来上がる。作るのは意外にかんたんなようだ。自宅用だったことはそのかんたんな作り方からも理解できる。イタリアにはグラッパという食後酒もあるが、これは自宅ではとうてい作れない。

レストランでそこの自家製のリモンチェッロを飲んだときには、フレッシュなレモンの香りにやられた。もちろん日本で。あれこれ調べてみると、本家のナポリ湾のアマルフィー海岸や、カプリ島などで採れるレモンは日本のレモンの三倍もある大きさで、果汁でなく果皮を使う種類らしい。ちなみにシチリア産のレモンは果汁用。

香りも成分も違うのだろうけれど、日本産のレモンかあるいは柚子の皮で一度は作ってみたいと思いつつためらい続けているのは、皮をむかれたあとの果実十個ほどの使い道がピシリと定まらないから。ジュースにしてしまえばいいのかな。ともあれ白いふにゃふにゃのレモンがシンクのあたりにいくつもころがっているのは困ります。

電話で話した次の週に彼と会って、そのかわいいビンのリモンチェッロをもらった。ビンにはカプリ島のレモンの絵が描いてある。イタリアの国のかたちをしていて、下はハイヒールの底そのものになっているから、ビンはちゃんと立つ。飲んだあとは花を挿すのもよろしいとの注釈もついている。

その場でぐいっと飲んでもいいよと言われたけれど、冷えてないものね、そうはいきません。冷凍庫に一日ほど格納して、とろりとなったところで、きゅっ、と。すっきりとおいしい。今度彼と会うときには、もっと大きいサイズのビンがほしいと言おう。
by suigyu21 | 2011-01-22 21:19 | Comments(1)

愉しみ 17(2010.9.25)

「影の反オペラ」初日七月十六日の開場時間午後六時三十分直前のシアターに入ってみる。もちろんまだだれもいない。エアコンであらかじめ冷やされてひんやりとしている。ほんのりと照明の当たったステージが斜めにシアターのほぼ半分くらいを占めている。これから花ひらこうとしている夢をこの場所はまだ知らない。だってさっきまでのあれは稽古だったのだから。準備は完璧に終わっていて、でもまだ始まっていない、という短い特別な時間の劇場の空気はいつだってすっきりと透明で、外の空気とはまったく別のものだ。これを味わえるのが制作の醍醐味かもしれない、とにんまりしてしまう。

モノオペラをやりたいと言われたとき、シアターイワトでなら出来ると思った。ほかのところではまず無理でしょう。だって、「やりたい」というだけで、まだかたちはなにもないのだから、どういうものが出来上がるのかきちんと説明なんか出来ないし、そうと知っていて受け入れてくれるところがあるとは到底思えなかった。

平野甲賀さんデザインの「めくって読む」本のような斬新なチラシには三人の出演者の名前が小さく書かれているだけで、スタッフの名前はひとりもクレジットされていない。どうしてですか? 何か意図でも? と聞かれてはじめて気づいたが、そのときにはまだ何も決まっていなかったのだった。実際には出演者とスタッフ全員あわせても十人に満たない少人数で、舞台のかたちもほんの少しの演出も照明も、稽古しながら考えを出し合って、ゆっくりとあるべきように出来上がった。そこに自分という痕跡を残そうという人はいなかった。

いつもどんぶり勘定でザルのように抜けているにしても、お金の問題は避けて通れない。一日の定員は八十人だから三日で二百四十人。入場料の合計は最大で百二十万円だ。これでは赤字ということは最初からはっきりしていたので、アサヒビール芸術文化財団と朝日新聞文化財団からの助成はありがたいことでした。感謝の気持ちとともに、次の機会にもぜひにとお願いもしておきたい。

最終日の公演が終わって、ロビーでCDなどの売り上げを計算してから劇場を覗いてみたら、すでにステージは解体作業に入っていた。夢はおしまい。

夢から醒めて、次にシアターイワトを訪れたのは七月三十日。斎藤晴彦さんの古希のお祝いの日だった。七十歳になったばかりの斎藤さんはみずから半七捕物帳の一編を朗読し、エノケンの歌をうたった。この夜のシアターイワトは隅から隅まで斎藤さんのもので、「影の反オペラ」のときのかけらもそこにはなかった。劇場は毎日が新しい夢なんだな。
by suigyu21 | 2011-01-22 21:18 | Comments(0)

愉しみ 16(2010.7.25)

春に柴田南雄作曲「優しき歌」(詩は立原道造)をはじめて聞いた。歌は波多野睦美、ピアノは高橋悠治。好きな詩に音がついていると、音はないほうがいいと感じることが多いけれど、これは違和感がなかった。詩人と作曲家が同時代の人だったことと関係があるのだろうか。

立原道造の詩に出合ったのは高校のときの現代文の教科書だった。『萱草に寄す』のなかの一編「のちのおもひに」が載っていて、その日本語をとてもきれいだと思った。中学二年のときに信州に移り住み、毎日乾いた空気を吸っていたから、私の体のいくぶんかはその空気で出来ていたからだろう、言葉の背後の空気の気配がすっと入ってきたのだ。

教科書には「のちのおもひに」と並んで、三好達治の「甃のうへ」も載っていた。上級生の文学少女から、三好達治に手紙を出したら返事が届いてしかもそれが巻紙だったという話を聞いて、すごいなあと思った。でも詩は「のちのおもひに」のほうがずっといい。

大学に入って東京に舞い戻った。同じ年に父親はまた転勤になり、もう信州に帰る家はない。昼間は友だちと楽しく都会を満喫しているが、ひとりになると恋しいのは信州のあの空気であり、あの空気をつくる自然だった。そんなときに開く本は立原道造の詩集、あるいは北杜夫の小説『幽霊』ときまっていた。『幽霊』には私の知っている風景が精神性そのままに描かれていて、それがストーリーよりも重要だったのかもしれない。

立原道造は二十四歳という若さでとっくに死んでしまっていたが、北杜夫さんはベストセラー作家として大活躍中だった。あるとき三好達治からの巻紙の返事のことを思い出して、深く考えもせず、手紙を書いた。何を書いたのかまったく覚えていない。まあ覚えていない程度のミーハーな読者からのファンレターだったにちがいない。お返事ください、とは書かなかったと思うけれど、でも、来たのですね、返事が。巻紙ではなくはがきだったけど。最初のは官製はがきだったが、そのうち会合などの出欠を知らせる返信用のはがきが使われるようになった。印刷してある返信用の住所を黒く塗りつぶして、その横に私の住所と名前が書いてあるのだ。いまならエコといえるのかもしれないが、そんなことをする人はまわりに誰もいない環境だったから、驚いて、そして笑った。巻紙よりはこちらのほうが自分にはふさわしいと思えたこともよく覚えている。

『幽霊』は一九六〇年に中央公論社から出版されたが、一九五四年、北さんが二十七歳のときに文芸首都社から自費出版している。テキストは少し違う。北さんの手元にはもう二冊しかないという自費出版のその二冊のうちの一冊がサイン入りで私のものになったとき、うれしかったのはもちろんだが、貴重なものをもらった責任も感じた。ずっと大事にして、死ぬ前には若い誰かに手渡そうと心に決めたのだった。そろそろその時期だけれど、受け取ってくれる人はどこにいるのかな。
by suigyu21 | 2011-01-22 21:16 | Comments(0)

愉しみ 15(2010.5.25)

タイの田舎に行ったとき、おなかがすくと、ぞろぞろとみんなで市場にでかけ、それぞれ食べたいものを買ってきて、道から少しだけひっこんでいる庭にござを敷いて食べる、というのが毎度の食事だった。近所のおじいさんが通りかかって、見なれない私に「どこから来た?」と訊く。「日本です」「ふ〜ん、日本にも犬はいるのかね」「いますよ」「ほんなら猫はどうかね」などという笑いながらの会話も食事の一部だった。タイの友人のその家は貧しいというわけではない。でも冷蔵庫には水しかはいっていないのだった。一日の半分くらいは家の外で暮らしていると、水くらいしか入れておく必要がない。ほんとは冷蔵庫だっていらないのかもしれない。個人的生活のなにもかもを家の中にとじこめなくてもいいと思うようになったのはあの冷蔵庫を見たときからだ。

以前暮らしていた家は路地の奥にあった。路地の入口はかつて路面電車が走っていた道だから、かなり大きな通りだ。路地の入口からその通りをわたったところに比較的大きな酒屋があった。酒屋ではあるけれど、味噌なんかの量り売りもしているし、食べ物もいろいろある。切手は買えるし、宅急便は送れるし、むしろよろず屋といったほうがふさわしい。建て替える前には立ち飲みのスペースもじゅうぶんにあって、夜な夜なおじさんたちが集っていた。いまは個人商店コンビニのような外観になっているけれど、よく見ると町内の豆腐屋の豆腐なんかも置いてある。そして、入口には「○○屋はみなさまのお宅の冷蔵庫です」という貼り紙がある。

このキャッチを毎日見ているうちに、そういうふうにこのお店を使ってみようと思うようになった。ここにあるものは買い置きしないで、無くなったらちょっと走って買いに行けばいい。朝から夜遅くまで開いているし、ふつうのコンビニと違って、マニュアルとはまったく無縁な人間的対応が我が家の延長としてふさわしい。というわけで、巨大(といっていい)冷蔵庫をゲット!

その後、近くに引っ越した。新しい家のすぐ裏には図書館がある。ということは書斎をゲット! 椅子や机はたくさんはないけれど、平日ならたいてい座れる。校正など大きな紙を広げる仕事はこの外部書斎でおこなうことにした。調べものもすぐにできるしね。ほんとは本も借りずに書斎で読むようにしたいのだけれど、本は寝転んで読むのが流儀なのだ。図書館には椅子に腰かけたまま眠っている人はたくさんいるが、まさか寝転がるまでは許されまいと自制する。

引っ越して家が狭くなったので、人を呼んで宴会する快適なスペースがない。とはいえ、人と会ってごはんをいっしょに食べたり飲んだりするのは生きていくのに必要不可欠なことだから、その場も家の中ではなく、外へ拡張することにした。近くにみつけたおいしくて安くて満ち足りる居酒屋は、我が家のキチン+応接間ゲット! である。我が家は半径二キロほどに広がった大豪邸となりつつある。
by suigyu21 | 2011-01-22 21:15 | Comments(0)

愉しみ 14(2010.3.25)

水牛レーベルの十三枚目となる最新版CDは「富樫雅彦/Steve Lacy/高橋悠治」です。リリースは二〇〇九年十二月だが、録音されたのは二〇〇〇年のライブだ。そのライブを主催したエッグ・ファームとの共同制作にすることで、双方の聴き手にとどけるとともに資金難をのりこえた。

三人の演奏者のうち二人はすでに亡くなっている。そういうものをリリースしたのははじめてのことだ。あるライブで販売していたら(出張して売り子をするのも重要な仕事です)、富樫雅彦ファンだという若い人がとてもうれしそうにかつ激しく「ありがとうございます!」と言って買ってくれた。ふつうは売るほうがお礼を言うものなのにね。

たくさん売れるものなら企業としてのレコード会社が出せばいい。大量生産大量消費にはけっしてのらないものを送り出すのが水牛の役割だと考えてやってきた。買ってくれる人の満足した様子に触れると、この考えは間違っていないと実感する。きっとCDも大切にされているだろう。

出来心に近い状態で、でもいろんな人の協力を得て、水牛レーベルの最初の一枚「水牛楽団」を出したのは二〇〇一年二月だった。せっかくレーベルを作ったのだから、何か出し続けてみようと、これもまた出来心で思い立ち、それから九年たって十三枚目まで出したことになる。最大の難関はなんといっても資金がないことだから、どんなものでも出せるというわけにはいかない。「水牛楽団」の場合はすでに音源があった。藤井貞和「パンダくるな」、矢川澄子「ありうべきアリス」、木村迪夫「まぎれ野へ」など詩人の自作詩朗読シリーズは、声だけなら自前で録音できるというアイディアの実ったもの。

すべてのCDには資金問題とともにストーリーも残される。いちばん大きな事件は、矢川澄子さんが録音を終えて二か月後に自殺したことだろう。お別れの会にあわせてCDを仕上げ、それは予定よりたくさんの人たちに配られた。朗読の作品として残ってよかったとは思ったけれど、ぜんぜんうれしくはなかった。いちばん長い事件は、「冬の旅」の公演がことしで六年目を迎えて、まだまだ続きそうなことですね。

CDやDVDを作るのはとてもかんたんになり、全曲あるいは一曲ずつのダウンロードもあたり前になっている。水牛のCDの役割は終わったかなと感じることもある。それに、意識して在庫をあまり持たないようにしていても、十三タイトルもあるとすぐに合計一〇〇〇枚くらいのCDと印刷物が部屋を占領してしまって、困る。ちょうど「水牛楽団」が品切れになったのをきっかけに、少しずつこれまでのものを終わりにしながら、リリースしたい新しいものが出てくるのを静かに待ちたいと思うようになった。
by suigyu21 | 2011-01-22 21:13 | Comments(0)

愉しみ 13(2010.1.25)

ケータイやメールなんてカゲもカタチもなかったころにすでにおとなになってたくらいだから、少女のころのコミュニケーションツールといえば手紙だけだった。いまでもツールとしての手紙は手離していない。自分のことばを助けてくれる絵はがきやびんせんはいつも引出しひとつに満杯だ。切手も常備してあるし、自分の住所なぞをプリントしたラベルも作ってある。

二月十四日に何人かの男友だちにさらりとカードを送るのは若いころは楽しみのひとつだったけれど、二〇〇六年から思わぬ助っ人があらわれて、その年以来、またその日が楽しみになった。

助っ人は「限りなき義理の愛大作戦」という。首謀者JIM-NET(日本イラク医療支援ネットワーク)の作戦目標はイラクのがんの子どもたちに抗がん剤を送ること。そのためにヴァレンタインの日に合わせてかわいいチョコレートを作っている。五百円でそのチョコが一個もらえる。買うのではなく、五百円の寄付にたいして一個お返しがくるという仕組み。チョコの包装紙には、がんになったイラクの子どもたちの描いた絵が何種類か印刷されている。鼻血がとまらないという男の子の絵は悲惨な状況なのに、どことなくユーモラスで、愛を送る日にはぴったりな気がしてしまうのだった。病気の子どもがかかわっていると、男子との関係にちいさな風穴があく。愛を受けとめてください、とチョコを送れば、その愛のなかに子どもの病気も含まれているからね。

大作戦が開始された年にサブリーンという十一歳の女の子が目のがんになった。貧しくて学校に行かれなかった彼女は、JIM-NETが運営する院内学級ではじめて字を覚え、絵を描いた。右目を摘出したので、左目だけで描いた絵はとってもチャーミング。すっかり心うばわれて、毎年チョコを心待ちにするようになった。写真で彼女の笑顔とも出会った。

ことしのチョコはサブリーンの絵だけ四種類、しかも缶入りになった。でもがんが全身に転移したサブリーンはそのチョコを見ることなく、二〇〇九年十月十六日にイラクのバスラで亡くなった。「私は死にます。でも幸せです。私の書いた絵がチョコレートの缶にプリントされ、それがイラクのほかの白血病の子たちの命を救うからです。みなさんありがとう」十五歳のさいごのことば。

亡くなるときまで着ていた赤いドレス、サングラスやスカーフなど、一枚のプラスティックバッグに入ってしまうわずかな遺品は遺言によってJIM-NETにゆだねられた。死んだあとはJIM-NETとともに生きることにしたのだと思う。「限りなき(いつまでも続く戦争を止めさせたい)義理の(約束した支援はちゃんとやろう)愛(やっぱり愛でしょう。平和のためには)大(十万個売ります)作戦」のための仕事のひとつとして、彼女の絵は今月のイワトの表紙を飾ることになった。
by suigyu21 | 2011-01-22 21:12 | Comments(0)