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水牛だより

2011年 01月 21日 ( 6 )

愉しみ 12(2009.11.25)

伊藤整と瀬沼茂樹による講談社文芸文庫『日本文壇史』全24巻を青空文庫のために入力しておきたいという意欲がまたふつふつとわきあがってきた。伊藤整の著作権が消滅するのは二〇二〇年、瀬沼茂樹は二〇三九年だから、わたしの寿命が先に尽きる可能性のほうがずっと高そうだけれど、明治期からぼちぼちとすすめておけば、後を引き継いでくれる人もあらわれるだろう、たぶん。

伊藤整の『日本文壇史』1から18巻が講談社文芸文庫から発売されたのは一九九四年から九七年にかけて。毎月新しい巻が出るたびに買っていた。ちょうどそのころ青空文庫をはじめようという話が持ち上がっていたので、『日本文壇史』をガイドにすれば、将来はその中に出てくる小説や詩などの本文が青空文庫に収録されていて、注釈としてすべて読めるようになるのだと想像して、ちょっと興奮したことを思い出す。

発足から十二年目を迎えたいまの青空文庫は、著作権の切れた日本語のテキストのデータベースとして存在しているが、最初はすべての作品のテキストデータとともに、エキスパンドブックという電子本に仕立てて並べていた。テキストを紙の本にならってコンピュータのモニタでも縦書きで表示する。日本語を読みやすく加工することは斬新なよろこびで、青空文庫はエキスパンドブックを集めた電子図書館という構想がはじめにあった。

入力して送られて来るファイルの数がどんどん増えたことが誘因となり、青空文庫からエキスパンドブック版が姿を消してからすでにたっぷりと時はすぎた。そのあいだに、インターネットは繋ぎっぱなしになり、携帯電話が手放せないものになり、コンピュータの環境はすっかり変わった。そして、最近ついに「SkyBook」「i文庫」「豊平文庫」などiPhone用の青空文庫ビューワーが相次いで発売された。縦書きで読みやすいフォント、文字などのサイズが変更できるなど、読書のための機能がいくつかついていて、何冊あっても持ち運びに困らない。まるで一巡したように、青空文庫をはじめたときに夢見たことが現実になっているのだ。iPhoneで読書だなんて、と思うでしょう? 思っているよりちゃんと読めますよ。こういうフォーマットのためなら、ふんだんにリンクのついた『日本文壇史』を作ってみたいと初心にかえったほどだもの。

アマゾンが開発した電子本を読むためのキンドルが日本でも発売されるというので、「電子書籍元年」とか騒がれているが、それは単にビジネスの世界のことにすぎない。電子書籍は使い勝手がよくないという話ももう心底聞きあきた。ほんとうに読みたいものがそこにあれば、どんなことをしてでも人は読む。伊藤比呂美さんはこんなふうにかっこいい。

「鷗外、それから太宰も、実は、ふつうの本より青空文庫で読んだ方が、五臓六腑に染みわたるような気がしております。つまり、ネットの画面そのままでは読みにくいので、まずHTMLで表示して、全文をハイライトして、それをコピーして、自分のコンピュータのWordに移して、縦書きに直して、好きなフォントに直したり旧かなを新かなにあるいはふりがなを除去したりして、自分の読みやすいように直していくうちに、全文を、まんべんなく、すみからすみまで、目で読むというより手で読んでいく。そうしますと、鷗外や太宰の声のあとをしっかりなぞりながら、耳を澄ませていくことができるのです。」(岩波文庫『読書のすすめ13』2009年5月)
by suigyu21 | 2011-01-21 20:03 | Comments(0)

愉しみ 11(2009.9.25)

電子本の編集はたいてい編集者とコンピュータ・プログラマーとを含むチームですすめていく。双方のちからを合わせないと出来ないからだ。先日、そのような仕事の最初の会合があった。十年以上にわたる仕事仲間がその日初対面の人に「遊びながら仕事している人です」と私のことを紹介した。反射的に「そんなことはありません」と反論してしまったが、黙ってにっこり笑っていればよかったな。遊びながら仕事している、というような核心的なことを言ってもらえる機会はそうそうあるわけではないのに。

片岡義男さんの本の編集はたしかに遊びながら仕事していると見えるかもしれない。仕事と遊びには境目がない、というほうがより正確で、ちゃんと仕事になっている。新刊の『ピーナツ・バターで始める朝』(東京書籍)は編集に携わった四冊め、はじめてのエッセイ集です。

宇高連絡船のうどん。アイスクリーム。三冊の本。シャーロック・ホームズ。青年の虚ろな内面。この世の果て。母親。白い縫いぐるみの兎。『路上にて』。吉永小百合。パット・ブーン。水鉄砲。鉛筆。などについて、四十三編の短い物語が収められている。

「どの話のなかにも僕が登場している。だからこの本は端から端まで僕だらけだが、その僕はけっして主人公ではなく、さまざまなものが結びついた相手であり、結びついてそこに生まれた話を、なり代わって語っている人にすぎない。」とあとがきにある。小説家としての態度ですね。
 
純情な日本は一九五五年ごろに終わっているというのは片岡さんの持論のひとつだが、四十三編の物語のほとんどはどこかで純情な日本と関連がある。そう考えると、「端から端まで僕だらけ」というのは片岡さんによってけっして書かれることのなかった、そしてこれからも書かれることのない膨大なことがらも含んでいる、ということがわかってくる。

いくつかの本にかかわる話のうち「『草枕』のような旅を」はめずらしく日本の小説についてのものだ。これは女性について書いたと片岡さんはおっしゃった。結びついた相手が漱石でもなく、『草枕』という小説でもなく、登場人物の那美さんという女性であるところが片岡さんらしい。そこから「漱石が小説のなかに描いた女性たちは、近代を楽々と抜け出すだけではなく、現代の突端でも精彩を放ってやまない、独特な魅力を持っているのではないか。」という仮説が生まれたり、「夏目漱石の作品がいまも多くの人に読まれている理由のなかで最大のものは、描かれる人たちの会話にある、と僕は思う。」という発見がある。

おしまい近くの「金魚と散歩だ」はこの本のなかでもっとも長く、しかもエッセイ集なのに完璧な小説で、全編ほとんどが「僕」と美代子さんとの会話だけですすんでいく。漱石作品の会話の発見が思い起こされて、小説の助走はそういうところから始まるのかもしれないと感じる。遊びながら仕事ができるのは、片岡さんの「小説家」という肩書きが職業ではなく生き方なのだと、これは『ピーナツ・バターで始める朝』を編集して私が発見したことです。
by suigyu21 | 2011-01-21 20:00 | Comments(0)

愉しみ 10(2009.7.25)

ひとりで製本をするとき、いつも手元において参考にするのは、山崎曜『手で作る本』(文化出版局)だ。二〇〇六年三月に出版されたこの本を見ながら、青空文庫のテキストを二十冊くらい製本したのは二〇〇七年の春だった。シンプルな一折中とじ、ステッチ中とじ、和本、交差式製本、リボンリンプ製本、コプティック製本など、はじめてなのに見よう見まねでやってみちゃって、なんとか形にはなったものだから、青空文庫製本部の発足祝いもかねて、限定一部一律一〇〇〇円で売ったら、ほぼ完売した。

コプティック製本の花切れの編み方の図版を見てもどうしてもわからず、結局それらしく見えるようにごまかしてすましていたのはちょっとまずかったが、そんなふうにに大胆(?)になれたのはこの本にあふれている山崎さんの姿勢や考えかたによるところが大きい。

写真で見ても実物も山崎さんの作る本は美しい。でもどれも工芸品の域におさまらない美しさで、本というものが本質的に持っている量産品としての軽やかさが匂う。興味を持ったらどこからでも入っていけるすきまがたくさんあって、私を誘うのだ。

イワトから手渡された『楽園』(立山ひろみ作)の台本を見ている。A4にプリントされてちょうど一〇〇ページ、ガチャックで二か所綴じてあるだけだが、稽古に使うにはこれでじゅうぶんともいえる。これを11/25〜29日の公演に合わせて製本してみよう、そしてうまくいったら売ってみたい、というのがひょうげん塾製本ワークショップの次からの課題なのです。

まずは本文を糸でかがって綴じてみる。そのための本文を用意しなければならないので、さっきから台本を見ているわけなのです。ワードのデータをそのまま使っても、一〇〇ページならば七折にはなるから、「糸だけ製本」にはちょうどいい分量だな。文字通り「糸だけ」で糊は使わずに表紙も綴じてしまう。表紙は本文を覆って保護するのが第一目的だけれど、中身をあらわす顔の役目も担っている。顔のデザインを考えつつ好きなように遊んでみるのは楽しい。

「糸だけ製本」をマスターしたら、次には機械ではなく複数の手による量産を目指したい。『楽園』というひとつのテキストにいろんなサイズといろんな装幀、それぞれ顔の違う五十冊くらいがテーブルの上にひしめきあって並んでいるところを想像すると笑えてくる。買ってくれる人たちを悩ませましょう。

山崎曜さんのブログにはこんなことも書いてある。
「職人は自分の道具を厳選して鍛え抜き、材料を吟味しますよね。
私の態度はそれとかけ離れています。いいかげんな道具を道具に合わせて使いこなし、どんな材料でも、なんとか形にすることが、かっこいいこと、だと思ってます。」

イワトひょうげん塾の次回製本ワークショップは八月二日(日)午後一時から五時です。
by suigyu21 | 2011-01-21 19:54 | Comments(0)

愉しみ 9(2009.5.25)

『隼別王子の叛乱』を読んで以来の田辺聖子ファンだ。このごろ箴言集をよく開く。どれも自身の小説やエッセイのなかから選びとられたもの。『苦み(ビター)を少々 399のアフォリズム』『おせい&カモカの昭和愛惜』もいいけれど、みずから編集した『人生の甘美なしたたり』が一番おもしろい。著者七十四歳のときの刊行で、この年の始めに伴侶のカモカのおっちゃんを亡くしている。ほとんど一行か二行の短さがなによりすばらしい。もっとも短いのは「良心は悪」。たった四文字がグッとくる。「非行は健康の素」や「落ち目に定年なし」や「人格もみてくれのうち」というのもある。ぴったりな誰かさんの顔が浮かんで、なはは、と笑えてくる。「真実はつねにおかしいのである」というのもどこかに書いてあった。

『風花』(川上弘美)を読んだ。著者はじめての「結婚小説」だそうだ。のゆり、という主人公と同じ名前をどこかで見たことがある。そう、『鏡を見ては行けません』(田辺聖子)の野百合だと思いついて、こちらもまた読んでしまった。このふたりはまったく似ていないけれど、のゆりは野百合を意識してつけられた名前かもしれないという感じがどことなくする。気のせいだろうか。

思いついてふたつの愛のかたちのエッセンスを『人生の甘美なしたたり』から選んでみる。その一。『風花』は「愛も食べ物と同じで、旬がある」『鏡をみてはいけません』は「ココロとココロのむすびつきは食べることからはじまる」その二。『風花』は「わかれ、というコトバには自浄作用はない」『鏡をみてはいけません』は「人生、エエとこ取りでよい」

『風花』はのゆりひとりにつきあって終始タイトに読んでいかなくてはならない。『鏡をみてはいけません』のほうは朝ごはんも主人公のひとり(?)として位置づけられているので、野百合も解放されてゆるくなることがある。小説はときにレシピをかねているし、読んでいるだけでおいしい。いろんな問題をかかえていてもごはんを食べてるそのときはだれも幸せなのだわ。そう、「〈とりあえずお昼〉と〈とりあえず寝る〉こと以上の、大事な事はない」のです。

主人公も小説のかたちも似ていない。でもね、「人生は非常時の連続である」「人生は非常識の連続である」という人生を、のゆりと野百合は表と裏のように生きている、と思えるのだった。

『人生の甘美なしたたり』は古本屋の店頭の一〇〇円均一の箱をあさっていて見つけた。抜き出された元の小説やエッセイが収録されているからか、全集には入っていないみたい。大事にしよう。「六十過ぎたら、自分が神様じゃっ」なんてのを毎日見ていれば、いつかその気になるかもしれない。

田辺聖子は女学校に通っていたころに「少女草(おとめぐさ)」というお手製の雑誌を三号まで出した。挿絵や表紙の絵も自分で描いた一部限定。戦渦をくぐりぬけたその「少女草」の写真を見ると4つ穴のある和綴じになっていた。ほら、やっぱり製本、なのです。
by suigyu21 | 2011-01-21 19:43 | Comments(0)

愉しみ 8(2009.3.25)

製本ワークショップについて、一年分四回の予定をカリキュラムとしてあらかじめ決めるつもりでいたけれど、それはやめることにした。だって参加する人たちには製本する必要や希望があるはずだから、具体的なその必要や希望に沿いながら考えて準備するほうが実際的でおもしろいに決まっている。お互いに教え教えられる関係になれるのもいいと思う。もともと本格派にはほど遠く、愉快派というのならば少しだけ自信がある。(相方の四釜裕子さんは愉快派ではあるけれど、ちゃんとルリユールを学んだ本格派でもあるので、技術についてはご心配なく)

平野甲賀さんとワークショップの打ち合わせをした。製本の材料のほとんどは紙だ。表紙にも紙を使うことが多い。紙は材質も色もたくさんあるのが楽しいけれど、折ったり貼ったりの使い心地はそれぞれ違う。見て美しいものが扱いやすいとは限らないから、選ぶのは楽しいけれども悩ましい。

次に布で表紙を作ってみる。裏打ちなどの手間はかかるが、紙より柔らかくて思ったより扱いやすい。曲がったり縒れたりして紙ならばまちがいなく失敗になるものも、あんがい修復できてしまうところはわたし向きの素材だと言える。

むずかしだろうなと思いつつ、革もためしてみた。確かに決められたサイズにまっすぐ切ったりするのにはコツがいる。でも折ったり綴じたり縫ったり貼ったりするのは、はじめてでもそれなりに誰でもできるのだった。

頭の中で考えていた扱いやすさは紙が一番、布が次で革が最後という順序だったが、手が感じる扱いやすさの順序は革、布、紙と、まったく逆だった。なんだか意外。

一枚の紙にはいろんな使いかたが考えられるけれど、革はそれほど自由ではない。そしてその制約や不自由さこそがやりやすさに通じているのだよ、と平野さんは言った。もっと制約が大きくて使いかたが決まってしまっているもの、たとえば木の板を表紙に使ってみれば、きっと革よりもっとやりやすいはずだ、とも。なるほど。おもしろいな。

こうしていろんな考えかたがわたしのものとなってゆく。日々食べているものが自分の体をつくるように、日々見たり聞いたり行ったりしていることとそれらの記憶の蓄積が自分なのだとはっきり実感できるときには、ふだん思っているよりもはるかに自分というものが外に向けて開かれている。愉快派にはこういうときがたまらない。

売った物も含めるとこれまで三百冊くらいは製本したはずなのに、手元にはほとんど残っていない。きれい、とか、すてき、とか言われるとすぐにあげてしまうのが愉快派の困ったところで、残っているのはどこか失敗している難アリなものばかり。これではまずい。ワークショップの日までに、見本として何冊か違うタイプのものをつくっておかなくては。注文があれば「ひょうげん塾」のブログに書いてくださいね。
by suigyu21 | 2011-01-21 19:41 | Comments(0)

愉しみ 7(2009.1.25)

春から始まるイワトひょうげん塾で製本のワークショップをおこなうことになった。何をどう綴じようかと考えて愉しんでいる。手製本というと、自分にとって大切な一冊を手間と時間をかけて美しく綴じるというイメージが強いけれど、ひょうげん塾ではそういうのはやりません。いや、自分にとって大切な一冊でもいいし、もちろん美しく綴じるのも目的のひとつではあるけれど、ともかくやりはじめたらその日のうちにちゃんと一冊の本として完成させようと思っているのだ。回を重ねるごとに違うタイプの手製本がふえていくようにしたい。

はじめて製本に関心を持ったのは「『オンデマンド移動図書館』がやってきた」という記事を読んだときのこと。「季刊・本とコンピュータ」という雑誌の2003年冬号に載っていたものだ。

オンデマンド移動図書館とは屋根にパラボラアンテナをつけたミニバンのことで「ブックモービル」と呼ばれている。コンピュータとカラープリンタなどを積んで、どこにでも出かける。出かけた先では、ミニバンのまわりに集まった子どもたちがコンピュータのモニタで好きな本を選ぶと、パラボラアンテナの働きによってカリフォルニアにある事務局のサーバーからそのデータをダウンロードできる仕組み。それをカラープリンタで印刷して、ページの順に折って断裁し、綴じる。最後に表紙をつけて出来上がり。昼下がりの青空の下での工作といったのんびりした感じで、子供たちがそれぞれ自分だけの本を作っていた。

ブックモービルはブルースター・カールが設立したアメリカの非営利団体インターネット・アーカイブのプロジェクトのひとつ。20世紀のおわり、青空文庫と同じころに出来たこの組織は、青空文庫と同じように著作権の切れた本をデジタル化することから、いまや「アレクサンドリア図書館バージョン2」という計画にまで発展しているらしい。本だけでなく、映画や音楽、テレビ番組なども集めて、世界のどこでも使えるようにするという理念がある。

青空文庫を運営するひとりとして、このプロジェクト自体にもちろん興味はあったが、それよりも切実に感じたは、自分で製本した『不思議の国のアリス』を枕の下にいれて寝ているという女の子のエピソードだった。データというコンピュータの中にしかないものを自分だけの本にする過程は、本を呼びもどすことだ。だから誰かに買ってもらった立派な本よりも大事な宝ものとなる。データそのものやそれを印刷しただけでは宝ものにはならない。読むための必要最低条件を少しだけ超えて、ちゃんと綴じることが必要なのだと思う。

楽譜、台本、写真なども綴じられるし、「イワト」一年分を合本にするのもおもしろそう。一年、四回分の内容については次号で詳しくお知らせします。
by suigyu21 | 2011-01-21 19:40 | Comments(0)