水牛だより
2024-02-01T18:54:08+09:00
suigyu21
水牛 by 八巻美恵
Excite Blog
青空文庫はカノンを撹乱する
http://suigyu.exblog.jp/33242200/
2024-02-01T18:52:00+09:00
2024-02-01T18:54:08+09:00
2024-02-01T18:52:39+09:00
suigyu21
未分類
収録作品数が二万近くなると、なんとなくではあっても、最初に計画や設計のようなものがあって、それに沿って構築してきたような感じがするかもしれないが、青空文庫にはそんなことはまったくないのだった。それぞれの理由があってそれぞれが公開したい作品を持ち寄って、いまがある。公開のための条件がクリアされているなら、作品は受け入れられたから。
月に一度、水牛を更新するときに、その月の水牛について短いテキストを書いている。寄せられたテキストを公開準備完了にしてから、最後にそのテキストを書くので、時間はあまりない。そのテキストの冒頭に、「一月」とか「二月」とか、月の名前が入っている短いテキストを引用しようと思いついた。もうだいぶ前のことだ。「五月」についてはハイネの詩を覚えていたので、それがきっかけだったかもしれない。ちょうどそのころだったか、いやもっと前だったか、青空文庫のなかの全文検索ができるようになったので、その機能を使ってみようと思ったのだ。すると。
月がかわる二、三日前くらいに検索してみると、どの月についても、とうていすべてを読むことができないほどの検索結果が出てくることを発見した。その無数ともいえる検索結果のなかで、毎月かならず上位にヒットするのが片山廣子の「或る国のこよみ」だった。ファイルを開いて見てみると、ヒットする理由はすぐにわかった。ケルトのこよみが以下のように綴られている。
一月 霊はまだ目がさめぬ
二月 虹を織る
三月 雨のなかに微笑する
四月 白と緑の衣を着る
五月 世界の青春
六月 壮厳
七月 二つの世界にゐる
八月 色彩
九月 美を夢みる
十月 溜息する
十一月 おとろへる
十二月 眠る
どこかの月は引用したと思うが、どの月だったかな、もう忘れてしまった。
なんども片山廣子という名前を見るので、これもなにかの縁と、他のエッセイを読んでみたら、たちまちとりこになった。たとえば「赤とピンクの世界」は一度読んだら忘れられない。赤貧というびんばふではなく、ピンクいろぐらゐのびんばふの世界について。青空文庫で公開されているものだけでは飽き足らず、わたしの書斎と呼んでいる近くの図書館で片山廣子と翻訳用のペンネーム松村みね子の著作はすべて読み、伝記も読んだ。
元旦のそらもようのなかの一節にはこうある。
「青空文庫の総合インデックスを開いたとき、全文検索を行ったとき、閲覧アプリでランダムに選び出されたとき、多くの作品のなかからひとつ、カノンを攪乱するような作品が現れて偶然目にとまる――そのような瞬間が生み出せるようなアーカイヴを、意志の積み重ねの結果として築いてきたのです。」
わたしの片山廣子との出会いはまさに、この具体的な体験だったと思う。全文検索が可能だからこそ体験できた。その後もときどき自分の関心のあるちょっとした単語を検索の窓に入れてみる。たとえば、ボタンとかマッチなど、具体的でちいさなものがよいように思う。思いもよらない結果が出てくるとうれしい。カノンを撹乱するような作品が現れるとさらにうれしい。青空文庫でアンソロジーを作ってみたらおもしろいだろうなあ。
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太陽の光を撮ってみる
http://suigyu.exblog.jp/33162431/
2023-11-30T19:53:00+09:00
2023-12-01T11:38:31+09:00
2023-11-30T19:53:43+09:00
suigyu21
未分類
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10月29日(日)は満月
http://suigyu.exblog.jp/33137963/
2023-10-31T15:00:00+09:00
2023-10-31T16:11:44+09:00
2023-10-31T15:00:20+09:00
suigyu21
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日曜日の病院は人が少なくて静かだ。病気のひとたちにはあれこれ不平不満はあるみたいだけど、基本的には休日でもきちんとケアされている。帰り道、数人しか乗っていないバスのなかで、ガザではこいういう病院も爆撃されていることを思う。
病院の霊安室はたいてい地下にあって、霊安室というよりは死んだばかりの死体置き場という感じが濃厚にただよっていることが多い。でもそうとばかりはいえない。埼玉県立小児医療センターの霊安室は病院の最上階にあるという。そこでは外の光が山本容子さん作のステンドグラス「星めぐりの歌」を通して部屋に満ちている。明るい光に包まれた亡骸から、ちいさな人のたましいは軽々と空をめざし、どこかで世界と混じりあうのだろう。こんなふうに、たましいの安らかさを願う明るいひかりがもっともっとあってもいいのにと思う。
パレスティナの子どもたちが腕に油性ペンで名前を書かれている映像を見た。彼らが死んだときにすぐ身元がわかるように、という理由だった。たましいの安らかさなど、どこにもない。
水牛楽団のレパートリーに「パレスティナのこどものかみさまへのてがみ」という歌があったが、そのころより事態がよくなっているとはとうてい思えない。世界は分断を深め、武器は威力を増している。どこかに明るさはあるのだろうか。
日暮れから顔を出しはじめた満月を中天まで見届けながら、春に亡くなった友人をふと思う。この美しい満月を彼が見ることはぜったいにない。しかし、わたしが見ている空間のどこかに彼のスピリッツは存在しているのだから、別世界にいながらいっしょにいるのだと思うことにした。
十月はたそがれの月。その最後の日曜日の夜、満月を眺めながら、わたしは東京に生きていた。
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はじめて会ったその日から
http://suigyu.exblog.jp/33083382/
2023-08-29T22:54:00+09:00
2023-08-30T21:09:58+09:00
2023-08-29T22:54:17+09:00
suigyu21
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緩和ケアの病棟に入院している友を訪ねた。暑い夏の盛りの暑い暑い午後だった。病室に入ると、彼女はベッドの上で上半身をおこしていた。わたしの顔を見ると、にっこりしつつ、両手のひらを上に向けて、肩をすくめる。「お手上げ、ってこと?」とわたし。「ケ・セラ・セラよ」と彼女。深刻な事態に少し緊張していたが、どんな事態であれ、会えばいつもとおなじなので、つい笑ってしまう。
大学の入学式の日、彼女の視線とわたしの視線が強烈に交わった。自分たち二人以外のなにかの力が働いたみたいに強烈だった。3秒くらいそのまま見つめ合って、それからお互いににっこりと近づき、そのとき以来の友である。
はじめて会ったその日から時の過ぎゆくままに、ほぼ60年。そのあいだには、お互いにいろんなことがあり、楽しいことはもちろんだが、楽しいとはいえないこともあった。だが、それらについて語っているうちに、どんなこともいつしか笑いに昇華されていくのがわたしたちだった。
最近、といっても還暦を過ぎてからは、もっと歳をとってからのことをよく話題にした。人間ひとりなら立って半畳、寝て一畳あればいいのだから、もしものときには二人で四畳半の部屋にいっしょに住めばなんとかなるんじゃない? というのが発端のアイディアで、その後は四畳半に暮らすふたりがどのようにボケていくのか、あれこれ想像を逞しくして、これでもかというくらいに話しては笑うのを楽しんだ。ああ、バカらしい。
しかし、そういう愉快な未来は、来ない、ということが明らかになってしまった。だから彼女に頼んだ。もしもわたしが80歳を過ぎてものうのうと生きていたら、テキトーに迎えに来てね、と。わかったわ、忘れないようにする、と彼女は答えた。「忘れないようにする」という言いかたがとても彼女らしい。忘れていなければ迎えに来てくれるだろう、キサス・キサス・キサス。
ひんやりとした手を握ったあとで、病室を出るときは、最初に出会ったときほどではないけれど、強く視線を交わして、またね、と言いあって手を振った。さよならはいらない。
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塩を食う
http://suigyu.exblog.jp/33012733/
2023-06-26T17:13:00+09:00
2023-06-26T17:13:55+09:00
2023-06-26T17:13:55+09:00
suigyu21
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「塩食い会」の願いは、次の世代の人たちに藤本さんの著作を読んでもらいたいという、とても単純で素朴なものだったと思う。最近、榎本空『それで君の声はどこにあるんだ? 黒人神学から学んだこと』(岩波書店 2022)を読んだ。この本のなかに、『塩を食う女たち』に藤本和子さんが書いたことばが出てくる。「塩食い会」の願ったとおりだ。あまりにもうれしかったので、その箇所だけ引用しておきたい。かいつまんで本の内容を紹介するよりずっと本質が伝わると思うから。
*
イエスの福音とは、黒人が黒人として自らの存在を受け入れることだ。創造の神は私たちを愛しているのだから。自分を憎むのはやめにしよう。黒い肌を十分に抱きしめ、誇りにしよう。黒いことは美しいのだ。ジェイムズ・ブラウンが歌ったではないか、それこそがイエスの解放の業(わざ)なのだ。黒人の信仰を指して、「頑固なまでの生の肯定」と書いたのは藤本和子だが(これもまたなんと生き生きとした言葉だろう)、それを徹頭徹尾、神学の言葉で表現したのが、コーンという神学者だった。黒人神学の「黒人」はマルコムから、「神学」はマーティンから。コーンはよくそう言っていたが、当時のアメリカ社会にあってそんな混淆は、私たちが想像するよりもずっと奇妙で、危うく、向こう見ずな行為であったに違いない。
黒人を人間以下の存在として、社会の底に留め置くという白人優越主義の構造は、四〇〇年間、その表情を変えながら、温存されてきた。デュボイスがいたにもかかわらず、フレデリック・ダグラスがいたにもかかわらず、ゾラ・ニール・ハーストンやアイダ・B・ウェルズがいたにもかかわらず、公民権運動やブラック・パワー運動があったにもかかわらず、オクタヴィア・バトラーやラルフ・エリスンがいたにもかかわらず、ファニー・ルー・ヘイマーやエラ・ベイカーがいたにもかかわらず、ブラック・ライヴズ・マター運動があるにもかかわらず。いや、そんな認識可能な名をもたない、黒人たちの美しい生の実験の瞬間が無数にあったにもかかわらず。
偶然生き残った人びとは、藤本和子が黒人の経験を形容して使った言葉を借りるなら、「生きのびる意志を持続」させてきた者でもあるからだ。それは偶然であり、しかし彼らが掴み取った必然である。運命であり、しかし彼らが受け入れた使命である。だからこそ、生き残りという言葉で自らを呼んでいくことには、人間の命に厚顔無恥にも優劣をつくりだす権力へ抵抗するような尊厳に溢れた響きがあるそ、何よりも、生き残ることが叶わなかった人びととの、肉体的で、霊的、歴史的な結びつきを手繰り寄せるような祈りがある。
警察の暴力の生き残りである黒人は、リンチの生き残りでもあり、奴隷制の生き残りでもある。そうやって生き残りとしての自己を掴み取ることで生きのびながら、私が出会った黒人たちは、先に死んでいった者たちとの関係を築き、築き直した。そんな手製の特別な系図が、今もなお死の隣にある彼らの生を支えている。そして、ことキリスト者にとって、生き残ることの叶わなかった人びとと生き残った人びとが、細やかな織物のように編み込む系図は、そのまま、白人キリスト教が押しつけたキリストを飛び越えて、二〇〇〇年前のイエスまで悠々と遡っていく。そうやって過去との特異な関係を取り結ぶという終わりのない行為を、信仰を呼ぶのではないか。
*
『塩を食う女たち』が出版されたとき、榎本さんはまだこの世に登場していなかった。ふたりの年齢は50歳ほどちがう。それでもこうして、ことばは響き合う。感度の高いアンテナと、それを受けとめるナイーヴな感受性とはふたりに共通しているみたいだ。榎本さんの翻訳書『誰にも言わないと言ったけれど-黒人神学と私-』(ジェイムズ・H.コーン著 新教出版社 2020)も読んでみようと思う。
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本を撮る
http://suigyu.exblog.jp/32958404/
2023-04-26T19:14:00+09:00
2023-04-26T19:22:52+09:00
2023-04-26T19:14:27+09:00
suigyu21
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ひとりのときに
http://suigyu.exblog.jp/32925695/
2023-03-19T20:47:00+09:00
2023-03-20T11:21:29+09:00
2023-03-19T20:47:55+09:00
suigyu21
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月刊のミニコミ「水牛通信」を出していたころ、その編集や執筆を担当した人のなかで、1938年寅年生まれの人が多かったのはどういう偶然だったのか。編集委員会(自称)には津野海太郎さん、平野甲賀さん、鎌田慧さん、高橋悠治さんがいて、茅香子さんと林のり子さんは原稿を書いてくれたり、いろんなイヴェントを助けてくれた。彼らの一年下には藤本和子さんと片岡義男さんがいる。戦争に向かうころに生まれたこどもの数は少なかったことを思えば、小さな集団としては、とても偏っていたことに間違いはない。
閑話休題。
『ひとりのときに』を読むと、こういうふうに年齢を重ねられたらいいなと思うし、平易な書きかたのせいか、案外かんたんにできそうな気がしてしまうけれど、実際にはそうはいかない。たとえば、朝日新聞社をリタイアしてから続けている英文翻訳塾を、コロナ禍でもずっと対面でおこなった事実ひとつをとっても、そこにゆるぎない強さを感じる。声高になにかを主張したりしないこの強さは、茅香子さんのパズルの強さと根はおなじなのではないかと思ったりする。オセロが流行していたとき、勝ち抜き大会で東京都の代表になるくらい強いのだ。ひとりで出来るパズルをいくつかおしえてもらって、いまもときどきはまるが、楽しむわりに、わたしの成功率はとても低い。だから茅香子さんのその強さが特別であることはよくわかる。
98字で、という制約を自分でつくって日記を書くのも、ひとりのときにふさわしい強さだ。ウエブではずっと読み続けている。ほぼリアルタイムの楽しみだ。本になって2021年という一年分をまとめて読むと、具体的なことは書かれていないけれど、茅香子さんにとっての私的な出来ごとがあると同時に、その年にわたしが経験したことと重なる出来ごともあって、同じ時間を生きていたことにしみじみとした。もっともっとひとりで遊ぼう、とも思った。
昨年の秋に、とあるコンサート会場のロビーで会った茅香子さんは、杖を持ってはいたけれど、真っ白な髪に軽いウエーブがかかっていて、すてきだった。思わず「かわいい!」と言ってしまったっけ。
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田川律さん R.I.P.
http://suigyu.exblog.jp/32901070/
2023-02-19T19:46:00+09:00
2023-02-19T19:46:57+09:00
2023-02-19T19:46:57+09:00
suigyu21
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80年代の水牛通信のころは田川さんを含めて、みんなと頻繁に会っていた。連絡手段は手紙か電話だけだったから、なににつけても会う必要があったのだ。そのころの田川さんの住まいは上野毛だった。田川さんの前立腺肥大の手術に付き添ったことがあった。それまでいっしょに暮らしていた女性と別れたばかりだったので、手術室のそばの部屋で、手術が終わるのを待って結果を聞く役目を引き受ける適当な人がいなかったから、病院も近いことだし、と引き受けた。手術は無事に終わった。二日くらいたって、お見舞いに行ってみると、同じ病室に入院している人の中心になって、おもしろおかしい話をしているようだった。入院二日ですでに病室の主のようになっていた。
上野毛の部屋も何度か訪ねた。太った猫が二匹いた。彼女たちに向かって、「かわいいね」とか「きれいね」というと、その言葉がわかるらしく、とたんに得意そうな顔と態度になる。縦に並べられているLPの背中は猫たちの爪研ぎに使われて、ボロボロ。なにのLPやらまったくわからない。おいとまするころには私の衣服には猫の白っぽい毛が無数についていたが、飼い主の田川さんの衣服にはついていないのは不思議だった。猫や犬を飼っている人はみなそうなのだろうか。
田川さんの服装はいつも目立っていた。派手な色をたくさん身につけている。はじめて会うひとはギョッとするかもしれないけれど、すぐに慣れて、それが田川さんなのだと思うようになる。靴は左右おなじのを履いていたと思うが(左右で色のちがう靴を履いていたのはジョン・ゾーンだった)、ソックスは左右そろっていないこともあった。そのころの田川さんは、自分の着るセーターを熱心に自分で編んでいた。太い糸と太い針で、大きな目のメリヤス編みだけのアバウトな編みかただったけれど、前後の見頃や袖、襟周りなど、すべてが色違いの原色の組み合わせで、編んでいるときから、いかにも田川さんらしい雰囲気があった。太い糸と針なので出来上がるのは早く、出来上がったらすぐに来て歩くから、会った人はみな新しいセーターに注目して、何か言う。それがうれしそうだった。
毎朝、どうやって着るものを選ぶのかと訊いたことがあった。洗濯したものを重ねてあるやろ、その一番上にあるものを順番に着るだけや、とのことで、そういえばそうでなくては成立しないファッション、というか、組み合わせだったな。さすがに舞台監督の仕事のときだけは黒一色でまとめていたけれど。
当時、田川さんが仲良くしている女の人はだいたい20代中頃だった。田川さん自身は毎年歳をとるのに、入れ替わる女の人はいつも同じようなお年頃。モテていたのだろうけど、そのわりには入れ替わりの頻度が高かったのはなぜだろう。
田川さんはいつも次の予定が決まっている忙しい人だったので、会うのはふつうは2時間くらいだった。もっとも長くいっしょにいたのは、冬の旅のツアーのとき。斉藤晴彦さんと高橋悠治さんがステージに立って演奏する人で、田川さんとわたしはその他の業務を担当した。ステージ以外ではわりと神経質な斉藤さんをいつも何気なく気にかけていた田川さんだった。旭川の駅前で、小沢昭一さんと偶然に出会ったときには、双方の全員がみな少し興奮して、その場だけ花が開いたようにはなやいだのもなつかしい。
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冬至から
http://suigyu.exblog.jp/32853719/
2022-12-28T19:34:00+09:00
2022-12-28T19:34:49+09:00
2022-12-28T19:34:49+09:00
suigyu21
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冬になると、毎年深谷ネギをたくさんいただく。採れたてで水分をたくさん含んだ太い白いネギは、どうやって食べてもおいしい。白いところだけを柔らかく蒸して、塩とごま油で食べるのは、おどろきのおいしさだ。『ウー・ウェンの「ネギが、おいしい」』というレシピの本を買って、冬になるとそのなかのいくつかをためしてみている。蒸すのはこの本の最初に載っているのだ。醤油や味噌で炒めたり、素揚げにしたり、毎日のようにネギそのものをおいしく食べるのは冬のすばらしさだと思う。
今年はこの本のなかのネギうどんとネギ焼きそばに目覚めた。ネギをじっくりと炒めて醤油と黒酢で味をつける。うどんのときは炒めたネギに水を加えて煮立ててからうどんを入れる。焼きそばは味をつけたネギと炒め合わせるだけ。読んだだけではあまりおいしそうに思えず、これまでためしたことがなかったのだが、やってみたら、とてもおいしい。ネギの味が全体にひろがっていて、黒酢がそれをまとめている。深谷ネギは一本だけ炒める。うどん一個や焼きそば一個よりネギの量が多いので、それもおいしさの理由かもしれない。二人で麺ひとつで満ち足りる。
親族のあつまりのとき、メンバーのひとりだった就学前の男の子がアンパンマンのフィギュアをいくつか握りしめていた。誰が好きなの?と訊いてみると、ナガネギマン、という意外な答えがかえってきた。どんなキャラクターなのかよく知らないが、きっと少数派に違いない。こういうこどもが少数派のままにあまり苦労しないで生きていける世界であってほしい。]]>
冬の旅は春の歌
http://suigyu.exblog.jp/32829386/
2022-12-01T14:43:00+09:00
2022-12-01T14:43:45+09:00
2022-12-01T14:43:45+09:00
suigyu21
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ミュラー--緑の草はどこにある?
思い出の世界のなかに。
もしわたしの心が流れる血液ならば
流れるそのすべてはわたしの顔だ。
「冬の旅」全体が、まさに春の歌である。
時間が突然溶ける。自然は、もはや流れる喜びに他ならない。泉と山々では、氷が溶けてゆく。過去が溶けるということが、天候=時間(le temps)なのだ。往古のきらめきが、春なのである。
(パスカル・キニャール『深淵』村中由美子訳 水声社2022)
ことしはまだ一度も「冬の旅」をきいていない。よくないことだ。YouTubeにはたくさんの「冬の旅」がある。いろんなピアニストといろんな歌手。たくさんあるからといって、次々ときいてみるのがいいとは限らない。
「冬の旅」は24曲もあるので、きくたびごとに好みの曲がかわったりする。去年は「まぼろし」がとてもよかった。山本清多さんの、うたえる訳もよい。
美しい光に
魅かれ いざなわれて
まぼろしの光と
知りながら なのに
ああ 惨めすぎると
人は 身をまかせる
たとえ まぼろしでも
温かい家と 愛らしいあの娘の
たとえ まぼろしでも
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危険に近づく
http://suigyu.exblog.jp/32800801/
2022-11-01T10:31:00+09:00
2022-11-01T10:33:12+09:00
2022-11-01T10:31:17+09:00
suigyu21
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https://timberfestival.org.uk/soundsoftheforest-soundmap/
新しく出た本をあれこれ見ていて、『いきている山』に注目する。スコットランド北東部の村に生まれたナン・シェパードが1944年から45年ごろに執筆したものらしい。
「スコットランド北東部のケアンゴーム山群。深成岩塊が突き上げられ、氷と水の力により削られてできた約4000フィート(1219m)の山々。プラトーが広がり、湖や池が点在し、泉が湧く。この地にほど近いアバディーンに生を享けた作家ナン・シェパード(1893-1981)は、生涯、この山に通い、この山を愛した。
ナンの登山は、高さや速さを競うものではない。山の「内側」や「奥地」を求めて山に入る。山に会いに行き、山と共に過ごす。ナンは犬のように山々を歩き回る。五感を解放し、いきている山の営み――光、影、水、風、土、岩、木、草花、虫、鳥、獣、雨、雪、人――に出会い直す。」とある。犬のように山々を歩き回る人の本の序文はロバート・マクファーレンが書いていて、そのタイトルは「我歩く、ゆえに我あり」とある。読まなくては!
https://www.msz.co.jp/book/detail/09529/
「書物は危険なものかもしれないが、それ以上に、ありとあらゆる危険をみずから引き受けているのが読書である。
読書は、読む行為に全霊を傾ける人々を完全に変貌させる体験だ。真の書物を部屋の片隅でしっかりと握りしめていなければならない。なぜなら、真の書物は共同体の慣習に逆らうものだからだ。読書する人は「別世界」、部屋の壁の隅の自分だけの「片隅」に独りで生きる。こうして、読者は書物を通して、都市にいながらにして、かつて体験した孤独が穿つ深淵にたった独りで、身をもって対峙するのである。読んでいる書物のページをただめくるだけで、たったそれだけで、読者は彼自身を生み出した(性的な、家族の、社会的な)裂け目を裂き続ける。」(パスカル・キニャール『静かな小舟』小川美登里訳 水声社2019)
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ダイヤモンドの指輪
http://suigyu.exblog.jp/32771763/
2022-10-01T20:07:00+09:00
2022-10-01T20:07:08+09:00
2022-10-01T20:07:08+09:00
suigyu21
未分類
自分の本を作るなんて、考えたこともなかったことが起こるのはこの世の不思議のひとつだと思う。いつになく強い熱意でhorobooksの平野公子さんから本にしたいと言われたとき、公子さんは相方の平野甲賀さんを亡くしたばかりだったから、本を作ることで彼女が少しでも元気を取り戻すことができるなら、と考えたことは否定できない。
今月の水牛に公子さんの原稿が載っている。甲賀さんと公子さんのミエさん(=わたし)についての会話がおもしろくて笑ってしまった。そうか、『水牛のように』という本は甲賀さんがわたしにくれたダイヤモンドの指輪だと思えばいいのだと思うと、さらに笑えてくる。
甲賀さんは、ミエが本を出すときには装丁はやるよ、と言っていた。それを、甲賀さんを最後に支えたデザイナーの吉良幸子さんが受け継いでくれた。カバーの絵は木村さくらさんが描いてくれた。彼女は生まれたときから知っている。幼いころから絵を描くのが好きで、きりりとした大人になったいまも描きつづけている。編集の賀内麻由子さんとは片岡義男.comの仕事で知り合った。彼女の担当は片岡さんの膨大なエッセイから、毎日ひとつ、その日にふさわしいものを選んでアップすることだった。その仕事ぶりを見て知っていたので、公子さんから彼女の名前が出たときは、とても心強かった。読後感想文なるものを書いてくれた斎藤真理子さんと出会ったのは比較的最近のことだが、じつは以前からお互いの存在はよく知っていたのだった。実際に出会って新しい友となった。そのあれこれは感想文に詳しいので、そちらをぜひ読んでください。
夏に出版されたイリナ・グレゴリさんの『優しい地獄』の編集に混ぜてもらった。イリナさんは出来上がった本を、ごく自然に「わたしたちの本」と言った。わたしも同じように『水牛のように』はわたしたちの本だと言いたい。
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友情
http://suigyu.exblog.jp/32606139/
2022-06-01T10:42:00+09:00
2022-06-01T10:44:08+09:00
2022-06-01T10:42:01+09:00
suigyu21
未分類
ボルヘス 女性は友情では卓越したものを持っています。彼女らは賞賛すべき友情の感覚を持っています。……女性はもちろん、男性よりも分別があり繊細です…いや、より繊細かはわかりませんが、ともかく男性よりも概して分別があります。その証拠に女性はめったに狂信的になりません。…
フェラーリ しかも、女性は愛の関係においてよりは友情の関係においてのほうが無害であるとよく言われます。それについてはどう思いますか。
ボルヘス ……しかし、愛は傷つきやすい関係ではありませんか。しかも絶え間ない確認を必要とします。確認がなければ疑惑が生まれます。何も便りがないまま数日が過ぎると破れかぶれになります。でも友人ならば、便りのないまま一年が過ぎても、何の問題も生じません。友情は、何というか、信頼を必要としませんが、愛はそうではありません。
さらに愛とは、いわば疑惑の状態です。心の休まらない、いつも警戒している状態です。でも友情では心の平静が保たれます。相手に会っても会わなくてもいいし、相手が何をしているか知っていても知らなくてもいいのです。友情に一種の嫉妬を感じる人もいるでしょうが、わたしは違います。友情を愛のように感じる人もたくさんいて、そういう人は相手のただ一人の友になりたいとさえ思います。
フェラーリ それは過ちです。友情は所有ではありませんから。
ボルヘス そうですね。しかし愛はたいてい所有です。
フェラーリ たしかに。
ボルヘス そうでなければ裏切りとみなされます。でも友情はそうではありません。
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何もしない
http://suigyu.exblog.jp/32571714/
2022-04-29T21:20:00+09:00
2022-04-29T21:28:09+09:00
2022-04-29T21:20:51+09:00
suigyu21
未分類
人々はゴールデンウィークで忙しそうだ。せっかくのおやすみなのに、ますます忙しく、疲れそう。ジェニー・オデル『何もしない』という本を読んで、生まれながらに持っている性癖が覚醒してしまった感じ。忙しさから逃れて、できれば寝て暮らしたい。
何かひとつ仕事がおわると、次は何をしようかなと考えてしまう。資本主義に毒されているのだろうけれど、次に何をしようかと考えるのは楽しいことでもある。が、「しない」方向にシフトしてみたいと思うようになった。
ケネス・グレアム『たのしい川べ』は1908年に書かれた。自分のこどものためのおはなしのようだ。前世紀初頭にすでにこんなふうに書かれている。そう、「ぼくらは、いつもいそがしい」だからこそ「それをやりたきゃ、やるのもいいさ。だけど、やらないほうが、まだいい」
どこかへ出かけようが、出かけまいが、目的地へつこうが、ほかのところへいってしまおうが、それともまた、どこへもつくまいが、ぼくらは、いつもいそがしい。そのくせ、これといって、特別のしごとがあるわけじゃない。そして、一つのことをやってしまうと、また、なにかやることがある。だから、それをやりたきゃ、やるもいいさ。だけど、やらないほうが、まだいい。(ケネス・グレアム『たのしい川べ』 石井桃子訳 岩波書店)
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春なのに
http://suigyu.exblog.jp/32508508/
2022-03-01T14:27:00+09:00
2022-03-01T17:33:25+09:00
2022-03-01T14:27:30+09:00
suigyu21
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晴れてあたたかく乾燥している日に、寝具などを洗濯する。太陽のおかげですぐに乾いて、清潔になる。それだけで気分は爽快だ。
友人が土佐文旦を送ってくれた。愛媛で育った彼女は柑橘類についてくわしい。こどものころはみかんよりも夏みかんのほうが好きだった。それから、八朔。柑橘類でも皮の黄色い大きめのが好き、と彼女には伝えてある。文旦はおいしい。さっぱりとしているので、食べたあと体のなかがきれいになる感じがする。
同い年の友人からコロナに罹った、とメールが来る。お互いに後期高齢者だから、罹ったら死ぬかもしれないね、と言い合っていた。軽くすんで回復してからの知らせだったからホッとして、免疫ができてよかったね、と返事。正しく恐れることはもちろん大事だけど、正しく恐れないことも必要ですね。
仕事はぼちぼちと、少しだけ続けていて、特に問題なく進んでいる。そのためには私だって少しは努力をしているつもり。
毎朝のささやかな贅沢のため、電車を乗り継いで、4つ目の駅までコーヒー豆を買いにいく。深く焙煎したばかりの豆はバッグに入れても持ち歩いているときも芳しいアロマをまきちらしてくれる。
『ペンギンの憂鬱』を読み始める。著者のアンドレイ・クルコフはウクライナのロシア語作家。いまの大統領は芸人だったし、ウクライナのユーモアを思う。
わたし(たち)の人生はこうした小さな出来事のつらなりにすぎないのかもしれないが、だからといって一方的な暴力によってこうした日常を奪われたくはない。きょうは武器関連企業の株価が上昇しているらしい。スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの本のタイトルのように「戦争は女の顔をしていない」のだ。
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