夏に出合うシベリアの俳句
2022年の冬だったと思う。書店で新刊書をながめていたとき、耳の大きな男の子のイラストが気になってその本を手に取った。隣には同じ背丈で少年よりおとなっぽい女の子がいて、両側に木造の家が並ぶ道にふたりは立ち、少し上を見上げている。雨が降っている。空には折り鶴が飛んでいる。読んでみたいと思ったが、その日は予定があり、荷物が重くなるのは困るので、買わなかった。メモがわりに表紙を盗撮したのだった。
その本がいま手元にある。『シベリアの俳句』(文 エルガ・ヴィレ 絵 リナ板 訳 木村文 花伝社 2022)
第二次世界大戦中、ソ連占領下のリトアニアで家族とともにシベリアに強制移住させられた経験を少年アルギスが語るグラフィックノベル。シベリアは遠く、寒い。害虫だらけの収容所では食べ物はとぼしい。そして厳しい監視のもとでの労働。こんなふうにまとめてみると、まちがってはいないが、この一冊の魅力がこぼれ落ちてしまう気がする。アルギスたちが置かれた環境は過酷なものだったが、こどもが持っている幻想や愛が満ちている。飼っていたガチョウのマルティナスはロシア兵に銃殺されたが、透明になったマルティナスのゆうれいはやさしく羽根で包んでくれ、それからはずっと彼のそばにいる、しかもごきげんで。銃殺という出来事とゆうれいという幻想が溶け合っているのがアルギスの現実なのだ。ねえちゃんのダリアは編み物が得意で、ゆうれいも見える。パパの妹のペトロネレおばさんは風みたいに自由で日本が大好き。合唱をやろうというときには(バルト三国では合唱はなくてはならないもの)「俳句をリトアニア語で歌うんだよ。そうすれば日々のなやみも吹き飛ぶよ」と言ったりする。鶴を折り、嘴を赤く塗って細い足を二本つけてコウノトリに変身させる。
そうしたエピソードがアルギスの目をとおして俳句のように短く語られる一冊だ。たしかに子どもの日々は短歌よりも俳句のほうが似合っている。アルギスは自分のことを13才くらいと言っているが、もう少し幼さの残る8才くらいがふさわしいような気もする。歳をとると子どもに戻ると言われるが、その戻る世界がこういうものなら、少しだけ期待をしてもいいのかもしれない。幼年時代についてはいろんな人が書いているから、自分の未来として少し研究?してみようか。
幼年時代のことを書いたひとりとして、ヴァルター・ベンヤミンをふと思い出し、『子どものための文化史』を本棚の奥から出してみた。1988年、晶文社刊、美しい。出たときに「キミはこういうのが好きだろ」と言って、編集長だった津野海太郎さんがくれた。
野村修の訳者のあとがきに、次の一節を見つけて、うれしい。(それこそ、余談だが)
「余談になるが、微小で繊細な筆跡を矜りにしていたかれは、だいじな原稿はすべて手書きにしていたのだが、一九三〇年前後からはそのさいに机を用いず、(喫茶店んで書くのでないかぎり)ソファーに寝そべって書くのをつねにした、という。この習慣は終生続いたらしい。」
その本がいま手元にある。『シベリアの俳句』(文 エルガ・ヴィレ 絵 リナ板 訳 木村文 花伝社 2022)
第二次世界大戦中、ソ連占領下のリトアニアで家族とともにシベリアに強制移住させられた経験を少年アルギスが語るグラフィックノベル。シベリアは遠く、寒い。害虫だらけの収容所では食べ物はとぼしい。そして厳しい監視のもとでの労働。こんなふうにまとめてみると、まちがってはいないが、この一冊の魅力がこぼれ落ちてしまう気がする。アルギスたちが置かれた環境は過酷なものだったが、こどもが持っている幻想や愛が満ちている。飼っていたガチョウのマルティナスはロシア兵に銃殺されたが、透明になったマルティナスのゆうれいはやさしく羽根で包んでくれ、それからはずっと彼のそばにいる、しかもごきげんで。銃殺という出来事とゆうれいという幻想が溶け合っているのがアルギスの現実なのだ。ねえちゃんのダリアは編み物が得意で、ゆうれいも見える。パパの妹のペトロネレおばさんは風みたいに自由で日本が大好き。合唱をやろうというときには(バルト三国では合唱はなくてはならないもの)「俳句をリトアニア語で歌うんだよ。そうすれば日々のなやみも吹き飛ぶよ」と言ったりする。鶴を折り、嘴を赤く塗って細い足を二本つけてコウノトリに変身させる。
そうしたエピソードがアルギスの目をとおして俳句のように短く語られる一冊だ。たしかに子どもの日々は短歌よりも俳句のほうが似合っている。アルギスは自分のことを13才くらいと言っているが、もう少し幼さの残る8才くらいがふさわしいような気もする。歳をとると子どもに戻ると言われるが、その戻る世界がこういうものなら、少しだけ期待をしてもいいのかもしれない。幼年時代についてはいろんな人が書いているから、自分の未来として少し研究?してみようか。
幼年時代のことを書いたひとりとして、ヴァルター・ベンヤミンをふと思い出し、『子どものための文化史』を本棚の奥から出してみた。1988年、晶文社刊、美しい。出たときに「キミはこういうのが好きだろ」と言って、編集長だった津野海太郎さんがくれた。
野村修の訳者のあとがきに、次の一節を見つけて、うれしい。(それこそ、余談だが)
「余談になるが、微小で繊細な筆跡を矜りにしていたかれは、だいじな原稿はすべて手書きにしていたのだが、一九三〇年前後からはそのさいに机を用いず、(喫茶店んで書くのでないかぎり)ソファーに寝そべって書くのをつねにした、という。この習慣は終生続いたらしい。」
by suigyu21
| 2024-07-01 16:52
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