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水牛だより

はじめて会ったその日から

夜になって窓をあけていると、秋の虫の音が聞こえてくるようになった。吹く風はほんの少しずつすずしくなって、ここちよいこともある。時は過ぎゆく。

緩和ケアの病棟に入院している友を訪ねた。暑い夏の盛りの暑い暑い午後だった。病室に入ると、彼女はベッドの上で上半身をおこしていた。わたしの顔を見ると、にっこりしつつ、両手のひらを上に向けて、肩をすくめる。「お手上げ、ってこと?」とわたし。「ケ・セラ・セラよ」と彼女。深刻な事態に少し緊張していたが、どんな事態であれ、会えばいつもとおなじなので、つい笑ってしまう。

大学の入学式の日、彼女の視線とわたしの視線が強烈に交わった。自分たち二人以外のなにかの力が働いたみたいに強烈だった。3秒くらいそのまま見つめ合って、それからお互いににっこりと近づき、そのとき以来の友である。
はじめて会ったその日から時の過ぎゆくままに、ほぼ60年。そのあいだには、お互いにいろんなことがあり、楽しいことはもちろんだが、楽しいとはいえないこともあった。だが、それらについて語っているうちに、どんなこともいつしか笑いに昇華されていくのがわたしたちだった。

最近、といっても還暦を過ぎてからは、もっと歳をとってからのことをよく話題にした。人間ひとりなら立って半畳、寝て一畳あればいいのだから、もしものときには二人で四畳半の部屋にいっしょに住めばなんとかなるんじゃない? というのが発端のアイディアで、その後は四畳半に暮らすふたりがどのようにボケていくのか、あれこれ想像を逞しくして、これでもかというくらいに話しては笑うのを楽しんだ。ああ、バカらしい。
しかし、そういう愉快な未来は、来ない、ということが明らかになってしまった。だから彼女に頼んだ。もしもわたしが80歳を過ぎてものうのうと生きていたら、テキトーに迎えに来てね、と。わかったわ、忘れないようにする、と彼女は答えた。「忘れないようにする」という言いかたがとても彼女らしい。忘れていなければ迎えに来てくれるだろう、キサス・キサス・キサス。

ひんやりとした手を握ったあとで、病室を出るときは、最初に出会ったときほどではないけれど、強く視線を交わして、またね、と言いあって手を振った。さよならはいらない。


by suigyu21 | 2023-08-29 22:54 | Comments(0)