塩を食う
今月はじめに、藤本和子さんの『砂漠の教室』が河出文庫になった。うれしい。「塩食い会」と称して、岸本佐知子さん、くぼたのぞみさん、斎藤真理子さんとつどい、藤本さんの著書の復刊を願って、そのためにできることはやってきた。運良くというべきか、機が熟したからというべきか、『塩を食う女たち』が岩波現代文庫になったのが2018年だった。四人で盛大に乾杯したときには、次は『ブルースだってただの唄』よね、と全員の意見が一致し、現実にちくま文庫になったのが2020年。2022年には『イリノイ遠景近景』もおなじ編集者の手によって、ちくま文庫に加わった。そのたびに祝杯をあげた「塩食い会」だが、『砂漠の教室』はむずかしいかもね、と言い合っていたのだった。しかし、われわれの思惑をこえて、『砂漠の教室』は四冊めの文庫になった。だからとてもうれしい。長いこと絶版だった本が文庫になって、「本」というブツがこの世界にたくさん存在するようになってよかった。これから先、古書になったとしても、読む人はきっといるだろう。そのためにも本がなくては。
「塩食い会」の願いは、次の世代の人たちに藤本さんの著作を読んでもらいたいという、とても単純で素朴なものだったと思う。最近、榎本空『それで君の声はどこにあるんだ? 黒人神学から学んだこと』(岩波書店 2022)を読んだ。この本のなかに、『塩を食う女たち』に藤本和子さんが書いたことばが出てくる。「塩食い会」の願ったとおりだ。あまりにもうれしかったので、その箇所だけ引用しておきたい。かいつまんで本の内容を紹介するよりずっと本質が伝わると思うから。
イエスの福音とは、黒人が黒人として自らの存在を受け入れることだ。創造の神は私たちを愛しているのだから。自分を憎むのはやめにしよう。黒い肌を十分に抱きしめ、誇りにしよう。黒いことは美しいのだ。ジェイムズ・ブラウンが歌ったではないか、それこそがイエスの解放の業(わざ)なのだ。黒人の信仰を指して、「頑固なまでの生の肯定」と書いたのは藤本和子だが(これもまたなんと生き生きとした言葉だろう)、それを徹頭徹尾、神学の言葉で表現したのが、コーンという神学者だった。黒人神学の「黒人」はマルコムから、「神学」はマーティンから。コーンはよくそう言っていたが、当時のアメリカ社会にあってそんな混淆は、私たちが想像するよりもずっと奇妙で、危うく、向こう見ずな行為であったに違いない。
黒人を人間以下の存在として、社会の底に留め置くという白人優越主義の構造は、四〇〇年間、その表情を変えながら、温存されてきた。デュボイスがいたにもかかわらず、フレデリック・ダグラスがいたにもかかわらず、ゾラ・ニール・ハーストンやアイダ・B・ウェルズがいたにもかかわらず、公民権運動やブラック・パワー運動があったにもかかわらず、オクタヴィア・バトラーやラルフ・エリスンがいたにもかかわらず、ファニー・ルー・ヘイマーやエラ・ベイカーがいたにもかかわらず、ブラック・ライヴズ・マター運動があるにもかかわらず。いや、そんな認識可能な名をもたない、黒人たちの美しい生の実験の瞬間が無数にあったにもかかわらず。
偶然生き残った人びとは、藤本和子が黒人の経験を形容して使った言葉を借りるなら、「生きのびる意志を持続」させてきた者でもあるからだ。それは偶然であり、しかし彼らが掴み取った必然である。運命であり、しかし彼らが受け入れた使命である。だからこそ、生き残りという言葉で自らを呼んでいくことには、人間の命に厚顔無恥にも優劣をつくりだす権力へ抵抗するような尊厳に溢れた響きがあるそ、何よりも、生き残ることが叶わなかった人びととの、肉体的で、霊的、歴史的な結びつきを手繰り寄せるような祈りがある。
警察の暴力の生き残りである黒人は、リンチの生き残りでもあり、奴隷制の生き残りでもある。そうやって生き残りとしての自己を掴み取ることで生きのびながら、私が出会った黒人たちは、先に死んでいった者たちとの関係を築き、築き直した。そんな手製の特別な系図が、今もなお死の隣にある彼らの生を支えている。そして、ことキリスト者にとって、生き残ることの叶わなかった人びとと生き残った人びとが、細やかな織物のように編み込む系図は、そのまま、白人キリスト教が押しつけたキリストを飛び越えて、二〇〇〇年前のイエスまで悠々と遡っていく。そうやって過去との特異な関係を取り結ぶという終わりのない行為を、信仰を呼ぶのではないか。
『塩を食う女たち』が出版されたとき、榎本さんはまだこの世に登場していなかった。ふたりの年齢は50歳ほどちがう。それでもこうして、ことばは響き合う。感度の高いアンテナと、それを受けとめるナイーヴな感受性とはふたりに共通しているみたいだ。榎本さんの翻訳書『誰にも言わないと言ったけれど-黒人神学と私-』(ジェイムズ・H.コーン著 新教出版社 2020)も読んでみようと思う。
「塩食い会」の願いは、次の世代の人たちに藤本さんの著作を読んでもらいたいという、とても単純で素朴なものだったと思う。最近、榎本空『それで君の声はどこにあるんだ? 黒人神学から学んだこと』(岩波書店 2022)を読んだ。この本のなかに、『塩を食う女たち』に藤本和子さんが書いたことばが出てくる。「塩食い会」の願ったとおりだ。あまりにもうれしかったので、その箇所だけ引用しておきたい。かいつまんで本の内容を紹介するよりずっと本質が伝わると思うから。
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イエスの福音とは、黒人が黒人として自らの存在を受け入れることだ。創造の神は私たちを愛しているのだから。自分を憎むのはやめにしよう。黒い肌を十分に抱きしめ、誇りにしよう。黒いことは美しいのだ。ジェイムズ・ブラウンが歌ったではないか、それこそがイエスの解放の業(わざ)なのだ。黒人の信仰を指して、「頑固なまでの生の肯定」と書いたのは藤本和子だが(これもまたなんと生き生きとした言葉だろう)、それを徹頭徹尾、神学の言葉で表現したのが、コーンという神学者だった。黒人神学の「黒人」はマルコムから、「神学」はマーティンから。コーンはよくそう言っていたが、当時のアメリカ社会にあってそんな混淆は、私たちが想像するよりもずっと奇妙で、危うく、向こう見ずな行為であったに違いない。
黒人を人間以下の存在として、社会の底に留め置くという白人優越主義の構造は、四〇〇年間、その表情を変えながら、温存されてきた。デュボイスがいたにもかかわらず、フレデリック・ダグラスがいたにもかかわらず、ゾラ・ニール・ハーストンやアイダ・B・ウェルズがいたにもかかわらず、公民権運動やブラック・パワー運動があったにもかかわらず、オクタヴィア・バトラーやラルフ・エリスンがいたにもかかわらず、ファニー・ルー・ヘイマーやエラ・ベイカーがいたにもかかわらず、ブラック・ライヴズ・マター運動があるにもかかわらず。いや、そんな認識可能な名をもたない、黒人たちの美しい生の実験の瞬間が無数にあったにもかかわらず。
偶然生き残った人びとは、藤本和子が黒人の経験を形容して使った言葉を借りるなら、「生きのびる意志を持続」させてきた者でもあるからだ。それは偶然であり、しかし彼らが掴み取った必然である。運命であり、しかし彼らが受け入れた使命である。だからこそ、生き残りという言葉で自らを呼んでいくことには、人間の命に厚顔無恥にも優劣をつくりだす権力へ抵抗するような尊厳に溢れた響きがあるそ、何よりも、生き残ることが叶わなかった人びととの、肉体的で、霊的、歴史的な結びつきを手繰り寄せるような祈りがある。
警察の暴力の生き残りである黒人は、リンチの生き残りでもあり、奴隷制の生き残りでもある。そうやって生き残りとしての自己を掴み取ることで生きのびながら、私が出会った黒人たちは、先に死んでいった者たちとの関係を築き、築き直した。そんな手製の特別な系図が、今もなお死の隣にある彼らの生を支えている。そして、ことキリスト者にとって、生き残ることの叶わなかった人びとと生き残った人びとが、細やかな織物のように編み込む系図は、そのまま、白人キリスト教が押しつけたキリストを飛び越えて、二〇〇〇年前のイエスまで悠々と遡っていく。そうやって過去との特異な関係を取り結ぶという終わりのない行為を、信仰を呼ぶのではないか。
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『塩を食う女たち』が出版されたとき、榎本さんはまだこの世に登場していなかった。ふたりの年齢は50歳ほどちがう。それでもこうして、ことばは響き合う。感度の高いアンテナと、それを受けとめるナイーヴな感受性とはふたりに共通しているみたいだ。榎本さんの翻訳書『誰にも言わないと言ったけれど-黒人神学と私-』(ジェイムズ・H.コーン著 新教出版社 2020)も読んでみようと思う。
by suigyu21
| 2023-06-26 17:13
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