田川律さん R.I.P.
もう先月になってしまったが、田川律さんの訃報が届いた。SNSで歌っている田川さんの写真を見ることはあったけれど、ずいぶん長いこと会っていなかった。そして、もう会えない。ちょっとだけ田川さんのごく個人的な思い出を。
80年代の水牛通信のころは田川さんを含めて、みんなと頻繁に会っていた。連絡手段は手紙か電話だけだったから、なににつけても会う必要があったのだ。そのころの田川さんの住まいは上野毛だった。田川さんの前立腺肥大の手術に付き添ったことがあった。それまでいっしょに暮らしていた女性と別れたばかりだったので、手術室のそばの部屋で、手術が終わるのを待って結果を聞く役目を引き受ける適当な人がいなかったから、病院も近いことだし、と引き受けた。手術は無事に終わった。二日くらいたって、お見舞いに行ってみると、同じ病室に入院している人の中心になって、おもしろおかしい話をしているようだった。入院二日ですでに病室の主のようになっていた。
上野毛の部屋も何度か訪ねた。太った猫が二匹いた。彼女たちに向かって、「かわいいね」とか「きれいね」というと、その言葉がわかるらしく、とたんに得意そうな顔と態度になる。縦に並べられているLPの背中は猫たちの爪研ぎに使われて、ボロボロ。なにのLPやらまったくわからない。おいとまするころには私の衣服には猫の白っぽい毛が無数についていたが、飼い主の田川さんの衣服にはついていないのは不思議だった。猫や犬を飼っている人はみなそうなのだろうか。
田川さんの服装はいつも目立っていた。派手な色をたくさん身につけている。はじめて会うひとはギョッとするかもしれないけれど、すぐに慣れて、それが田川さんなのだと思うようになる。靴は左右おなじのを履いていたと思うが(左右で色のちがう靴を履いていたのはジョン・ゾーンだった)、ソックスは左右そろっていないこともあった。そのころの田川さんは、自分の着るセーターを熱心に自分で編んでいた。太い糸と太い針で、大きな目のメリヤス編みだけのアバウトな編みかただったけれど、前後の見頃や袖、襟周りなど、すべてが色違いの原色の組み合わせで、編んでいるときから、いかにも田川さんらしい雰囲気があった。太い糸と針なので出来上がるのは早く、出来上がったらすぐに来て歩くから、会った人はみな新しいセーターに注目して、何か言う。それがうれしそうだった。
毎朝、どうやって着るものを選ぶのかと訊いたことがあった。洗濯したものを重ねてあるやろ、その一番上にあるものを順番に着るだけや、とのことで、そういえばそうでなくては成立しないファッション、というか、組み合わせだったな。さすがに舞台監督の仕事のときだけは黒一色でまとめていたけれど。
当時、田川さんが仲良くしている女の人はだいたい20代中頃だった。田川さん自身は毎年歳をとるのに、入れ替わる女の人はいつも同じようなお年頃。モテていたのだろうけど、そのわりには入れ替わりの頻度が高かったのはなぜだろう。
田川さんはいつも次の予定が決まっている忙しい人だったので、会うのはふつうは2時間くらいだった。もっとも長くいっしょにいたのは、冬の旅のツアーのとき。斉藤晴彦さんと高橋悠治さんがステージに立って演奏する人で、田川さんとわたしはその他の業務を担当した。ステージ以外ではわりと神経質な斉藤さんをいつも何気なく気にかけていた田川さんだった。旭川の駅前で、小沢昭一さんと偶然に出会ったときには、双方の全員がみな少し興奮して、その場だけ花が開いたようにはなやいだのもなつかしい。
80年代の水牛通信のころは田川さんを含めて、みんなと頻繁に会っていた。連絡手段は手紙か電話だけだったから、なににつけても会う必要があったのだ。そのころの田川さんの住まいは上野毛だった。田川さんの前立腺肥大の手術に付き添ったことがあった。それまでいっしょに暮らしていた女性と別れたばかりだったので、手術室のそばの部屋で、手術が終わるのを待って結果を聞く役目を引き受ける適当な人がいなかったから、病院も近いことだし、と引き受けた。手術は無事に終わった。二日くらいたって、お見舞いに行ってみると、同じ病室に入院している人の中心になって、おもしろおかしい話をしているようだった。入院二日ですでに病室の主のようになっていた。
上野毛の部屋も何度か訪ねた。太った猫が二匹いた。彼女たちに向かって、「かわいいね」とか「きれいね」というと、その言葉がわかるらしく、とたんに得意そうな顔と態度になる。縦に並べられているLPの背中は猫たちの爪研ぎに使われて、ボロボロ。なにのLPやらまったくわからない。おいとまするころには私の衣服には猫の白っぽい毛が無数についていたが、飼い主の田川さんの衣服にはついていないのは不思議だった。猫や犬を飼っている人はみなそうなのだろうか。
田川さんの服装はいつも目立っていた。派手な色をたくさん身につけている。はじめて会うひとはギョッとするかもしれないけれど、すぐに慣れて、それが田川さんなのだと思うようになる。靴は左右おなじのを履いていたと思うが(左右で色のちがう靴を履いていたのはジョン・ゾーンだった)、ソックスは左右そろっていないこともあった。そのころの田川さんは、自分の着るセーターを熱心に自分で編んでいた。太い糸と太い針で、大きな目のメリヤス編みだけのアバウトな編みかただったけれど、前後の見頃や袖、襟周りなど、すべてが色違いの原色の組み合わせで、編んでいるときから、いかにも田川さんらしい雰囲気があった。太い糸と針なので出来上がるのは早く、出来上がったらすぐに来て歩くから、会った人はみな新しいセーターに注目して、何か言う。それがうれしそうだった。
毎朝、どうやって着るものを選ぶのかと訊いたことがあった。洗濯したものを重ねてあるやろ、その一番上にあるものを順番に着るだけや、とのことで、そういえばそうでなくては成立しないファッション、というか、組み合わせだったな。さすがに舞台監督の仕事のときだけは黒一色でまとめていたけれど。
当時、田川さんが仲良くしている女の人はだいたい20代中頃だった。田川さん自身は毎年歳をとるのに、入れ替わる女の人はいつも同じようなお年頃。モテていたのだろうけど、そのわりには入れ替わりの頻度が高かったのはなぜだろう。
田川さんはいつも次の予定が決まっている忙しい人だったので、会うのはふつうは2時間くらいだった。もっとも長くいっしょにいたのは、冬の旅のツアーのとき。斉藤晴彦さんと高橋悠治さんがステージに立って演奏する人で、田川さんとわたしはその他の業務を担当した。ステージ以外ではわりと神経質な斉藤さんをいつも何気なく気にかけていた田川さんだった。旭川の駅前で、小沢昭一さんと偶然に出会ったときには、双方の全員がみな少し興奮して、その場だけ花が開いたようにはなやいだのもなつかしい。
by suigyu21
| 2023-02-19 19:46
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