歳をとる
いくたびか老いゆくわれをゆめみつれ今日の現実(うつつ)は夢よりもよし
(片山廣子 昭和16年 65歳)
コロナ禍がやってくる前のことだったと思う、マスクはしていなかったから。夫がピアノを弾く小さなコンサート会場で、前半と後半のあいだの休憩のときに、ひとりの女性に話しかけられた。わたしよりも20歳くらい年下に見えるひとだった。「これまでコンサートを楽しませていただきました。じつはもうすぐ遠いところへ行くので、今回が最後になると思います。ありがとうございました」と言われ、「そうですか。どうかお元気で」と答えた。コンサートの後半が始まる。その人はわたしの2列前の席にすわっていた。よく見ると、首の細さがとても目立っていて、病気で痩せていることがわかった。遠いところへ行くということばがよみがえって、あ、そういうことか、と思った。コンサートが終わり、席を立って出口に向かうその人の肩に手をふれて、「さきほどおっしゃったことの意味がわかりました。どうかお元気で」と言って、お互いににっこりして、別れた。どうかお元気で、というのは遠くに行くまではそうしていてほしいというわたしの望みだったが、適切な言いかただったかどうかは疑わしい。
コロナ禍がやってきて、人と会う機会が減り、外出する機会も減ったので、髪を染めるのをやめてみることにした。自分のありのままの髪がどんな様子なのかも知りたかった。髪を染めるのはじゅうぶんに楽しんだし。染めた髪がのびてくると、染めたところと染めていないところの差が気になって、なかなかそのままにできないことは経験者ならよくわかるはずだ。
次第に染料が落ちて、髪も伸び、全体に白い感じが強くなっていくころ、電車に乗ると席を譲られることが何度かあった。髪だけではなく、姿勢その他を含むわたしの全体が年寄りじみていたのか。乗ったらすぐに空いた席を探してもいたから、それは見ている人にはよくわかったのだろうと思う。一年あまりが過ぎて、自分の白髪頭に慣れたら、不思議に席を譲られることがなくなった。
ルース・オゼキ『あるときの物語』(田中文訳 早川書房 2014)を読んだ。上下2巻の長いものだったが、下巻まで到達すると、読むのをやめられなくなって、めずらしく2日くらいで読み終えた。寝転んで読んでいても眠くならなかったのだ。そのなかのほんの一節を引用する。カリフォルニア育ちで日本に帰ってきた高校生の女の子が104歳になる祖母のことをこんなふうに書いている。
「あなたにものすごーく年をとった人と一緒に過ごした経験があるかどうかは知らないけど、なんていうか、とんでもなく強烈なの。つまりね、彼女たちにはまだほかの人間と同じように、腕も脚もおっぱいもお股もあるけど、ものすごーく年をとった人っていうのは、どちらかと言えばエイリアンとか、宇宙からやってきた生き物に近い気がするの。これが適切な表現じゃないのはわかってるけど、ほんとなの。ETか何かみたいで、年寄りでもあり若くもあり、動き方だってゆっくりで用心深いと同時に唐突だったりして、そこがまた地球外生命体っぽい。」
生まれてきて、この世界で生きていれば、歳をとることは避けられない。誰でもわかっているのに、歳をとることにはなぜかマイナスのメージがつきまといすぎている。歳をとれば、見た目はもちろん「年寄り」だし、動作その他はゆっくりになり、目は見えにくく、耳も聞こえにくくなってくる。やる気というのもあまり出てこない。老化、と呼ばれているそれらのことは、生きている自分自身に起こる変化であって、いまいるここから、次のステップというのか、異界というのか、遠くに行くために必要なことなのだと思う。エイリアンになるのも地球外生命体になるのもいいなあ。移行するための変化を軽い気持ちで受け入れて、穏やかな夢のなかにいるように生きていきたい。
by suigyu21
| 2021-11-01 10:34
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