夢の家
片岡義男.comで、片岡さんの書き下ろし短編小説のコーナー「短編小説の航路」を担当している。左右社から先週発売になった『いつも来る女の人』はこの「短編小説の航路」からの7編と書き下ろしの1編とで構成されている。片岡さんがごく最近、どのような短編を書いているのか、よくわかる一冊だ。自分で担当したのだが、あらためて最初の「イツモクルオンナノヒト」を読んでみたら、小説というのはものすごい頭脳プレイだと感じた。
さて、その「短編小説の航路」はすでに40作近くにまでなってきた。先日最新作が送られてきて、その短編のなかにアカシアの花のことが出てきた。そういえば中学の庭に何本かニセアカシアの木があって、ちょうどいまごろ、白い房状の花が一気に咲いたことを思い出した。独特な匂いも花からふってくる。授業はいつも以上にうわのそらで、教室の窓から花にみとれていた。雨の日は特によかった。そしてそれからすぐあとに、ライラックの花が咲く。高校の庭には大きなヒマラヤスギのすぐ隣にうすむらさき色の花のライラックがあって、よくこの木の近くでお弁当を食べた。というようなことを、片岡さんと電話で話した。
そうして、偶然読み始めた『いっぱしの女』(氷室冴子)のなかに「夢の家で暮らすために」というエッセイがあった。冒頭の部分を引用する。
私にはいつも夢想する”夢の家”がある。
それはたとえば、私が高校生のころ、通学路の途中にあった平屋の家であってもいい。その家は敷地が三〇〇坪くらいあって、校倉造りみたいな瀟洒な平屋の南側が、広い庭になっていた。 生け垣がぐるりと庭を囲み、ニセアカシアやライラックの木々がぎっしりと植わっていて、甘い匂いが辺りに漂い、綺麗な赤やオレンジ色のひなげしが咲き、茎の太り、もしや名のあるお方ではといいたくなるような鮮やかな黄色の薔薇がたくさん、咲いていた。(中略)
毎日、その家の前を通るたべに、私はなんということもなく、将来、こういう家に、気の合うともだちと住みたいなァと夢想していた。そうして、そのためにはともだちの誰かが莫大な遺産を相続するとか、誰かがすごいベストセラーを書いてイッパツ当てるとか、そんな、とほうもないことが起こらない限り、見込みがなさそうだなと現実に返って、しょんぼりするのだった。
気が合うという、ただそれだけのつながりの人々と、ひとつ屋根の下で暮らせたら素敵だというのは、そのころからの夢だった。
ここに書かれている「夢の家」は北海道で、わたしの中学高校は松本だった。おなじよい匂いの花が咲くのは、たぶん気候が似ているからだろう。そういえば、松本には薔薇があふれかえるように咲くお屋敷もあって、花のときにはその庭が開放されていたことも思い出す。夢の家のすばらしさは容易に想像できる。
このエッセイでもっとも惹かれたのは「気が合うという、ただそれだけのつながりの人々と、ひとつ屋根の下で暮らせたら素敵だというのは、そのころからの夢だった。」というところ。そうできたらほんとうに素敵だろう。気が合う人というのは年齢や性別にはあまり関係がないところがいいなと思う。どう考えてみても、これはほとんど見果てぬ夢だろうけれど、いつもそのイメージを自分が持っていることは、現実をちょっぴり夢のほうにひっぱるくらいの作用はしてくれる。
東京ではニセアカシアの花もライラックの花も見ることはない。こういう家に暮らせたら、と思ってしまうような、木のたくさんある平屋の家はたまに見かけるけれど、次にそこを通るとその家はなくなっていることも多い。素敵な家から出てくる人が、見るからに気が合わない感じで、ガックリすることもある。都会では、植物が繁茂している平屋というのは絶滅危惧種だし、気が合う人を見つけるのもかんたんではない。
by suigyu21
| 2021-06-01 15:23
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