無駄であいまいな
2021年4月は複数の友人たちと会った。友だちと会うのは「要」であり「急」である。少なくともわたしにとっては、と加えるべきか。誰かに会いたいと思ったらその人に会いたいと言うし、友だちから会いたいと言われれば迷わずに会う。どのような状況であってもそのことははっきりとしている。
会うと、まずはお互いの現在をチェックしあう。そしていっしょに食べて、ときには飲んで、しゃべって、笑う。会うとはすなわちしゃべりあうこと。生産性に結びつく話がなにもない、というのがもっともあらまほしい。そこでしか通じないくだらない会話が楽しいというのは、ほんとうに無駄で最高なことだ。会話が成り立っているのかどうかもよくわからないことだってある。会話に生産性が生じることがときどきはあって、そうするとどこかにシゴトの要素が迷い込んできてしまう。それはそれでいいこともあるけれど、友だちとの非生産的な会話という極意からちょっとはずれて、別のものになってしまう。
小学生のころは父の転勤にともなう転校が多く、そのころの友だちとはいつの間にか連絡が途絶えた。人間というよりは動物のようにじゃれ合っていた子供のころからの友だちがいないのは残念だ。いまの自宅の近くに小学校がある。その小学校の隣は図書館だ。午後に図書館に行くとき、ちょうど小学校の下校時間とかさなることが多く、狭い歩道に子供が群れて歩いている。一応マスクはしてるが、腕を組んだり、走る者を追いかけて抱きついたり、大声をだしあったり、と密だらけ。
遠くから来た友だちや久しぶりに会った友だちとは、別れるときに、ついハグをしたり、手を握りあったりした。推奨されない行為だったが、密な小学生とおなじだなと思う。そういうとき、自分と彼女や彼との境界は無意識のうちに広がって、あいまいになっているのだった。
by suigyu21
| 2021-04-29 22:34
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