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水牛だより

時間が見えるとき

買い物を終えて、電車で自宅に帰るべく、駅の改札を通ってから、長いエスカレーターでプラットフォームに上がる。プラットフォームは東西にのびていて、上がったところはその東の端だ。上がりきったとたんにオレンジ色の西陽を全身に受ける。

太陽は正面に見えるビルの上にあって、これからビルの向こうに沈もうとしているところだ。そういえばあのビルの向こうに、昔は富士山が見えたのだ、晴れた日にはくっきりと。わたしはプラットフォームを西に向かって歩いていく。電車が来るまであと数分だ。まぶしいので、ときどき目の上に手のひらをかざしてしまう。少し吹いている風も感じるし、歩いていく先には川も見える。やはり地上のプラットフォームはいいなあと思う。

気持ちよく歩いていると、太陽はどんどん沈んでいき、電車が到着するまえにビルの影に見えなくなってしまった。こんなに地球は動いている。時間を目で見たという感じはしたが、いま、という時を見ることはできなかったと思う。いまという時は動きをとめることがない。

そんな時間について、片岡義男はこんなふうに書く。
「 私鉄の駅に向けて歩いていくあいだ、なにごとかが終わっていくのを、自分のぜんたいとして、彼女は感じた。夏は終わった。その夏とともに、失われたものが、あるのではないか。失われて二度と戻らないそれはなになのか。ほかに人のいない階段を降りていくミレイは、失われて二度と戻らないものは、この自分ではないか、と感じた。
 ついさきほどの自分は、もはやどこにもなかった。失われたと呼ぶなら、それは決定的に失われた。この階段を降り始めたときの自分は、ほんの二、三分前なのだが、取り返すことなど、誰にも出来ないほどに、完全に、失われた。刻々と自分は失われていく。消えていく。おなじ自分がここにいて、階段をさらに降りていくのだが、つい先刻のあの自分は、もうどこにもいない。自分は少しずつ失われていくのではないか。自分が失われていくとは、これまでの日々が終わっていくことだ、と彼女は考えた。」

そして、吉田健一を思い出す。
「日差しが変って昼が午後になるのは眼に映る限りのものが昼から午後に移るのでその光を受けた一つの事件もその時間の経過によって人間の世間に起った一つの出来事と呼んで構わない性格を帯びる。もし時間が凡てを運び去るものならばそこに凡てがなくてはならない。そういうことを考えていて唐松は一般に陳腐の限りであるように思われて脇に寄せられていることがその初めの意味を取り戻して時間のうちにその手ごたえがある形を現すのを見た。それが例えば人生であって人間が生れて死ぬまでの経過はそれとともに時間が運び去った一切があってその人間の一生と呼ぶ他ないものになり、そういう無数の人間の一生がその何れもが人間の一生であるという印象を動かせなくしてそこに人生がその姿を現す。又一日は二十四時間でなくて朝から日が廻って、或は曇った空の光が変って午後の世界が生じ、これが暮れて夜が来てそれが再び白み始めるのが、又それを意識した精神が働くのが一日である。そのことを一括して言えばそれが生きるということだった。」

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by suigyu21 | 2020-11-20 19:32 | Comments(0)