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水牛だより

ともしい日々

頼まれて原稿を書くことが少しだけあって、例外なくいつも困っている。「はい。書きます」と返事はするけれど、そのときには何のアイディアもないのだ。でも友だちと話しているときには、その友だちとの関係もあって、考えるより先に口先からどんどんアイディアだけは出て来る。そうして、それならそれを書いてみれば、と編集者の友だちに言われて、ひとつ連載を持っている。レシピというひと言が連載タイトルに入っているのだが、そんなことが書けるとは思ってもいなかったのに、なんだか書いているのだ。二十歳になるころまでは偏食気味だったことを思うと、我ながら信じがたい。

興味をもった食べ物と季節との関係とを検索してみると、たいていいつも片山廣子という著者のなにがしかのエッセイが引っかかる。どれも、いわゆるグルメからは遠いものだ。たとえばキャベツのおかゆ。

「米一合に小さいきやべつならば一つ、大きいのならば半分ぐらゐ、こまかくきざんで米と一しよにぐたぐた煮ると、米ときやべつがすつかり一つにとけ合つてしまふ。うすい塩味にして、それに日本葱を細かく切つて醤油だけで煮つけて福神漬ぐらゐの色あひのもの、まづ葱の佃煮である、これをスープ皿に盛つたお粥の上にのせて食べる。」

「ともしい日の記念」というタイトルのエッセイだ。ともしくてもおいしくなくては。こんなふうにして知った片山廣子は自分でも知らなかった自分の触覚のようなものを考えるきっかけとなり、それだけではなく、新しい窓を開いてもくれたのだった。はじめて読んだのはずいぶん前だったが、敗戦後すぐのころに書かれたエッセイは、震災後のことを考えるよすがにもなっているように思う。触覚の伸びていく先にはなにがあるのだろうか。
by suigyu21 | 2011-09-23 21:06 | Comments(0)