椿よ椿
椿の花というものをきちんと意識して見たのはちょうど去年のいまごろだった。今年のいまは、去年のいまごろより花はたくさん咲いている。そう感じるのは少しはアンテナの精度があがったからかもしれないが、まわりにはじつに椿の木が多いことに感嘆してしまう。日本全国そうなのだろうか。そうだといいな。種類もたくさんある。花を見れば椿だと分かるけれど、木の幹や葉だけでは特定できないほどにさまざまだ。
世田谷通りと交差する環七のあたりの街路樹は椿で、まだ背の低い木々がまばらに植えられてぼったりと赤やピンクの花を咲かせている。ちょっとかわいそうな景色だ。歩いていて見入ってしまうのは庭に植えられている変わった花で、ほんの少しだけその家の前に立ち止まっていると、その家のガラス戸の内側からブルドッグに睨まれたりする。私と目が合っているその真剣な顔がおかしくてつい笑う。花はおしなべて去年のほうが美しかった。いろんな要素があるから、毎年同じというわけにはいかない。過ぎた夏の暑さのことも思い出しました。きょうは枯れ木に百舌鳥と雀がまるで花のようにたくさん止まっているのも見た。
花や木や犬や鳥や、そして海や空や月や、そういう身近なものに向い合っているときには言葉はいらない。語る必要のない状態というのは生きもののあるべき状態のひとつなのかもしれないな。何かが終わった世界の片隅で、そんなことを思った三月の終わりの日。
世田谷通りと交差する環七のあたりの街路樹は椿で、まだ背の低い木々がまばらに植えられてぼったりと赤やピンクの花を咲かせている。ちょっとかわいそうな景色だ。歩いていて見入ってしまうのは庭に植えられている変わった花で、ほんの少しだけその家の前に立ち止まっていると、その家のガラス戸の内側からブルドッグに睨まれたりする。私と目が合っているその真剣な顔がおかしくてつい笑う。花はおしなべて去年のほうが美しかった。いろんな要素があるから、毎年同じというわけにはいかない。過ぎた夏の暑さのことも思い出しました。きょうは枯れ木に百舌鳥と雀がまるで花のようにたくさん止まっているのも見た。
花や木や犬や鳥や、そして海や空や月や、そういう身近なものに向い合っているときには言葉はいらない。語る必要のない状態というのは生きもののあるべき状態のひとつなのかもしれないな。何かが終わった世界の片隅で、そんなことを思った三月の終わりの日。
by suigyu21
| 2011-03-31 21:24
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