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水牛だより

愉しみ 16(2010.7.25)

春に柴田南雄作曲「優しき歌」(詩は立原道造)をはじめて聞いた。歌は波多野睦美、ピアノは高橋悠治。好きな詩に音がついていると、音はないほうがいいと感じることが多いけれど、これは違和感がなかった。詩人と作曲家が同時代の人だったことと関係があるのだろうか。

立原道造の詩に出合ったのは高校のときの現代文の教科書だった。『萱草に寄す』のなかの一編「のちのおもひに」が載っていて、その日本語をとてもきれいだと思った。中学二年のときに信州に移り住み、毎日乾いた空気を吸っていたから、私の体のいくぶんかはその空気で出来ていたからだろう、言葉の背後の空気の気配がすっと入ってきたのだ。

教科書には「のちのおもひに」と並んで、三好達治の「甃のうへ」も載っていた。上級生の文学少女から、三好達治に手紙を出したら返事が届いてしかもそれが巻紙だったという話を聞いて、すごいなあと思った。でも詩は「のちのおもひに」のほうがずっといい。

大学に入って東京に舞い戻った。同じ年に父親はまた転勤になり、もう信州に帰る家はない。昼間は友だちと楽しく都会を満喫しているが、ひとりになると恋しいのは信州のあの空気であり、あの空気をつくる自然だった。そんなときに開く本は立原道造の詩集、あるいは北杜夫の小説『幽霊』ときまっていた。『幽霊』には私の知っている風景が精神性そのままに描かれていて、それがストーリーよりも重要だったのかもしれない。

立原道造は二十四歳という若さでとっくに死んでしまっていたが、北杜夫さんはベストセラー作家として大活躍中だった。あるとき三好達治からの巻紙の返事のことを思い出して、深く考えもせず、手紙を書いた。何を書いたのかまったく覚えていない。まあ覚えていない程度のミーハーな読者からのファンレターだったにちがいない。お返事ください、とは書かなかったと思うけれど、でも、来たのですね、返事が。巻紙ではなくはがきだったけど。最初のは官製はがきだったが、そのうち会合などの出欠を知らせる返信用のはがきが使われるようになった。印刷してある返信用の住所を黒く塗りつぶして、その横に私の住所と名前が書いてあるのだ。いまならエコといえるのかもしれないが、そんなことをする人はまわりに誰もいない環境だったから、驚いて、そして笑った。巻紙よりはこちらのほうが自分にはふさわしいと思えたこともよく覚えている。

『幽霊』は一九六〇年に中央公論社から出版されたが、一九五四年、北さんが二十七歳のときに文芸首都社から自費出版している。テキストは少し違う。北さんの手元にはもう二冊しかないという自費出版のその二冊のうちの一冊がサイン入りで私のものになったとき、うれしかったのはもちろんだが、貴重なものをもらった責任も感じた。ずっと大事にして、死ぬ前には若い誰かに手渡そうと心に決めたのだった。そろそろその時期だけれど、受け取ってくれる人はどこにいるのかな。
by suigyu21 | 2011-01-22 21:16 | Comments(0)