愉しみ 11(2009.9.25)
電子本の編集はたいてい編集者とコンピュータ・プログラマーとを含むチームですすめていく。双方のちからを合わせないと出来ないからだ。先日、そのような仕事の最初の会合があった。十年以上にわたる仕事仲間がその日初対面の人に「遊びながら仕事している人です」と私のことを紹介した。反射的に「そんなことはありません」と反論してしまったが、黙ってにっこり笑っていればよかったな。遊びながら仕事している、というような核心的なことを言ってもらえる機会はそうそうあるわけではないのに。
片岡義男さんの本の編集はたしかに遊びながら仕事していると見えるかもしれない。仕事と遊びには境目がない、というほうがより正確で、ちゃんと仕事になっている。新刊の『ピーナツ・バターで始める朝』(東京書籍)は編集に携わった四冊め、はじめてのエッセイ集です。
宇高連絡船のうどん。アイスクリーム。三冊の本。シャーロック・ホームズ。青年の虚ろな内面。この世の果て。母親。白い縫いぐるみの兎。『路上にて』。吉永小百合。パット・ブーン。水鉄砲。鉛筆。などについて、四十三編の短い物語が収められている。
「どの話のなかにも僕が登場している。だからこの本は端から端まで僕だらけだが、その僕はけっして主人公ではなく、さまざまなものが結びついた相手であり、結びついてそこに生まれた話を、なり代わって語っている人にすぎない。」とあとがきにある。小説家としての態度ですね。
純情な日本は一九五五年ごろに終わっているというのは片岡さんの持論のひとつだが、四十三編の物語のほとんどはどこかで純情な日本と関連がある。そう考えると、「端から端まで僕だらけ」というのは片岡さんによってけっして書かれることのなかった、そしてこれからも書かれることのない膨大なことがらも含んでいる、ということがわかってくる。
いくつかの本にかかわる話のうち「『草枕』のような旅を」はめずらしく日本の小説についてのものだ。これは女性について書いたと片岡さんはおっしゃった。結びついた相手が漱石でもなく、『草枕』という小説でもなく、登場人物の那美さんという女性であるところが片岡さんらしい。そこから「漱石が小説のなかに描いた女性たちは、近代を楽々と抜け出すだけではなく、現代の突端でも精彩を放ってやまない、独特な魅力を持っているのではないか。」という仮説が生まれたり、「夏目漱石の作品がいまも多くの人に読まれている理由のなかで最大のものは、描かれる人たちの会話にある、と僕は思う。」という発見がある。
おしまい近くの「金魚と散歩だ」はこの本のなかでもっとも長く、しかもエッセイ集なのに完璧な小説で、全編ほとんどが「僕」と美代子さんとの会話だけですすんでいく。漱石作品の会話の発見が思い起こされて、小説の助走はそういうところから始まるのかもしれないと感じる。遊びながら仕事ができるのは、片岡さんの「小説家」という肩書きが職業ではなく生き方なのだと、これは『ピーナツ・バターで始める朝』を編集して私が発見したことです。
片岡義男さんの本の編集はたしかに遊びながら仕事していると見えるかもしれない。仕事と遊びには境目がない、というほうがより正確で、ちゃんと仕事になっている。新刊の『ピーナツ・バターで始める朝』(東京書籍)は編集に携わった四冊め、はじめてのエッセイ集です。
宇高連絡船のうどん。アイスクリーム。三冊の本。シャーロック・ホームズ。青年の虚ろな内面。この世の果て。母親。白い縫いぐるみの兎。『路上にて』。吉永小百合。パット・ブーン。水鉄砲。鉛筆。などについて、四十三編の短い物語が収められている。
「どの話のなかにも僕が登場している。だからこの本は端から端まで僕だらけだが、その僕はけっして主人公ではなく、さまざまなものが結びついた相手であり、結びついてそこに生まれた話を、なり代わって語っている人にすぎない。」とあとがきにある。小説家としての態度ですね。
純情な日本は一九五五年ごろに終わっているというのは片岡さんの持論のひとつだが、四十三編の物語のほとんどはどこかで純情な日本と関連がある。そう考えると、「端から端まで僕だらけ」というのは片岡さんによってけっして書かれることのなかった、そしてこれからも書かれることのない膨大なことがらも含んでいる、ということがわかってくる。
いくつかの本にかかわる話のうち「『草枕』のような旅を」はめずらしく日本の小説についてのものだ。これは女性について書いたと片岡さんはおっしゃった。結びついた相手が漱石でもなく、『草枕』という小説でもなく、登場人物の那美さんという女性であるところが片岡さんらしい。そこから「漱石が小説のなかに描いた女性たちは、近代を楽々と抜け出すだけではなく、現代の突端でも精彩を放ってやまない、独特な魅力を持っているのではないか。」という仮説が生まれたり、「夏目漱石の作品がいまも多くの人に読まれている理由のなかで最大のものは、描かれる人たちの会話にある、と僕は思う。」という発見がある。
おしまい近くの「金魚と散歩だ」はこの本のなかでもっとも長く、しかもエッセイ集なのに完璧な小説で、全編ほとんどが「僕」と美代子さんとの会話だけですすんでいく。漱石作品の会話の発見が思い起こされて、小説の助走はそういうところから始まるのかもしれないと感じる。遊びながら仕事ができるのは、片岡さんの「小説家」という肩書きが職業ではなく生き方なのだと、これは『ピーナツ・バターで始める朝』を編集して私が発見したことです。
by suigyu21
| 2011-01-21 20:00
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