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水牛だより

幼いころ

『シベリアの俳句』の続きでヴァルター・ベンヤミンの「一九〇〇年頃のベルリンの幼年時代」を読みたいと思って、その本はここにあるが、まだ読んでいない。幼年時代というものをもう少し徘徊してみたいのだ。

いま、当たり前に存在していて、わたしの幼年時代にはなかったものは多い。電気といったら電灯を連想するくらいで、TV、冷蔵庫、洗濯機、炊飯器などなかった。部屋はほとんどが畳だったし、トイレは汲み取り式。電話もない家のほうが多かった。ちょっと考えてもこんな具合で、いったいどうやって暮らしていたのだろうと自分のことながら不思議な気がする。ラジオはよく聞いた。聞こえてくるのはことばだけなので、勝手に思い違いをしていることがよくあって、いくつかは覚えている。

たとえば。日曜日の午後に「のど自慢素人演芸会」があり、それが終了するときにかならず「司会はミヤタテルでございました」とか言うのだが、その意味がまったくわからないのだった。司会の意味がわからないし、ミヤタテルが名前だということもわからない。ただたどしく大人に聞いてみるのだが、今度はわたしの質問の意味がわかってもらえない。

ベンヤミンの幼年時代とは雲泥の差だとは思うけれど、自分の記憶にある幼年時代を呼び戻しながら、読んでみたい。

 すばらしき好運われに来し如し大きデリツシヤスを二つ買ひたり(片山廣子)


# by suigyu21 | 2024-10-01 17:17 | Comments(0)

夏のりんご

こどものころ、8月も半ばをすぎるころに、まだ暑さ本番なのにその年はじめての青リンゴが出て、それを丸齧りするのが好きだった。いかにも採れたての若くて新鮮な青い色。齧ると皮と果肉のあいだがちょっと渋く、酸っぱさと少しの甘さのバランスは夏らしくてさわやかだ。そしてそこから冬までずっとりんごは身近にあった。
「りんごをかじると血がでませんか」とかいう歯ブラシだったか歯磨き粉だったかのCMがあったくらいで、少し前まではりんごは丸齧りするものであり、齧るとしばしば歯茎から出血するのであった。

ここ2年から3年、毎朝りんごをひとつ、連れ合いとわけあって食べている。去年の夏からは、長時間貯蔵されてスポンジのようになった国産のりんごよりは、ニュージーランドの採れたてのほうを選ぶようになった。何種類か輸入されているので一応すべて味わってみて、JAZZというのに落ち着いている。そろそろ南半球のりんごの季節は終焉に向かっていて、かわりに今年の長野県産が少しではじめている。りんごは遺伝子もしっかり解析されているようだし、なにより長期保存の技術によってこのように一年中食べることができるようになっている。
ニュージーランド産のりんごは、一つをふたりで分け合うにはちょっと小さいけれど、食べすぎるよりはいいだろう。朝、一口食べればなんとなく気分もしゃっきりするのは、軽いりんご依存症かもしれないが、特に弊害はないと思う。

りんごを手に取るとき、このひとつのりんごが自分のところにやってくるまでのりんごの時間を考えたりする。りんごの木は人間よりも先に存在していただろうけれど、失楽園からはじまって(はじまりはもっと前かもしれない)、人間が生まれてからはともに生きてきたのだから。

少し前に書いた『シベリアの俳句』にもりんごが何度も印象的に出てきた。リトアニアでもりんごが栽培され、人々はよく食べる。冬になると小さく切ったりんごの身を乾燥させて保存したものは彼らのソウルフードだ。シベリアに強制移住させられた人びとは、りんごのタネと蜜の滲み出た乾燥りんごを持っていく。りんごのタネはバケツの土の中から芽を出したが、それきり大きくは育たない。ある夜、ひどい吹雪に襲われて、たくさんの人が寒さで死んだ。翌日、遺体を埋葬するために土を掘るが、硬く凍結した土は人間の力では掘り起こせない。それで、凍った川に穴をあけ、そこから遺体を川に流すのだった。きのうまで仲良くしたり喧嘩したりしていた親しい人たちが、凍った川面の下を流れていくのをみんなで見送る。さいごに「シベリアではりんごは育たない」と言って、りんごの芽も川に流される。それがおとむらい。

  林檎一個が墜ちた。地球は壊れる程迄痛んだ。最後。
  最早如何なる精神も発芽しない。
  (「最後」 李箱)

この夏に津軽産のシードルを一本もらった。軽く発泡するりんごのお酒をつめたくして飲むとおいしい。りんごの発酵酒なので、アメリカやヨーロッパでは水よりも安全だと言われたこともあったようだ。日本では以前からニッカがシードルを作っている。さらにアップル・ワインも作っている。若いころ、ニッカのブランデーを飲みつつ、これはりんごが原料で、つまりカルヴァドスと同じなんだよ、とおしえてくれた人はどうしているかな。ひさしぶりにりんごの香りたつニッカのブランデーを飲みたくなってきた。


# by suigyu21 | 2024-09-01 17:20 | Comments(0)

nothing but blue skies

iPhoneで撮影したまま溜まっている写真を整理しようかと見始めたら、ほとんどの建物の被写体はすでにないか変貌している。ほんの数年くらいのあいだに消滅した風景が無数にある。近所にある古い家だって、少しのあいだその前を通らないうちに更地になっていることも多い。ちょうどそういう時期なのかもしれない。更地になったところに新しく建てられた建築物はどれも味気ないと感じるけれど、これからその建物にも時が積もって古くなり、見るひとによっては郷愁を誘われるように変化するのだろうか。

近所には外壁を青く塗った家が何軒かある。青の色はさまざまで、写真はその一軒だ。外壁の青と空の青とがほぼ同じ色合いになった快晴のある日の午後、立ち止まってカメラを向けた。そして次にこの家の前を通ったときには、写っている外壁の手前に新しい家が建っていて、青い色はまったく見えなくなっていた。ガックリ。この写真にしか残っていないあのときに見えたもの、なくなっても誰が困るわけではないけれど、無造作に捨ててしまっていいのかどうか。いい、とも思えるし、よくないという声も聞こえてきて、結論はなかなか出ない。

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# by suigyu21 | 2024-08-01 10:27 | Comments(0)

夏に出合うシベリアの俳句

2022年の冬だったと思う。書店で新刊書をながめていたとき、耳の大きな男の子のイラストが気になってその本を手に取った。隣には同じ背丈で少年よりおとなっぽい女の子がいて、両側に木造の家が並ぶ道にふたりは立ち、少し上を見上げている。雨が降っている。空には折り鶴が飛んでいる。読んでみたいと思ったが、その日は予定があり、荷物が重くなるのは困るので、買わなかった。メモがわりに表紙を盗撮したのだった。

その本がいま手元にある。『シベリアの俳句』(文 エルガ・ヴィレ 絵 リナ板 訳 木村文 花伝社 2022)
第二次世界大戦中、ソ連占領下のリトアニアで家族とともにシベリアに強制移住させられた経験を少年アルギスが語るグラフィックノベル。シベリアは遠く、寒い。害虫だらけの収容所では食べ物はとぼしい。そして厳しい監視のもとでの労働。こんなふうにまとめてみると、まちがってはいないが、この一冊の魅力がこぼれ落ちてしまう気がする。アルギスたちが置かれた環境は過酷なものだったが、こどもが持っている幻想や愛が満ちている。飼っていたガチョウのマルティナスはロシア兵に銃殺されたが、透明になったマルティナスのゆうれいはやさしく羽根で包んでくれ、それからはずっと彼のそばにいる、しかもごきげんで。銃殺という出来事とゆうれいという幻想が溶け合っているのがアルギスの現実なのだ。ねえちゃんのダリアは編み物が得意で、ゆうれいも見える。パパの妹のペトロネレおばさんは風みたいに自由で日本が大好き。合唱をやろうというときには(バルト三国では合唱はなくてはならないもの)「俳句をリトアニア語で歌うんだよ。そうすれば日々のなやみも吹き飛ぶよ」と言ったりする。鶴を折り、嘴を赤く塗って細い足を二本つけてコウノトリに変身させる。

そうしたエピソードがアルギスの目をとおして俳句のように短く語られる一冊だ。たしかに子どもの日々は短歌よりも俳句のほうが似合っている。アルギスは自分のことを13才くらいと言っているが、もう少し幼さの残る8才くらいがふさわしいような気もする。歳をとると子どもに戻ると言われるが、その戻る世界がこういうものなら、少しだけ期待をしてもいいのかもしれない。幼年時代についてはいろんな人が書いているから、自分の未来として少し研究?してみようか。

幼年時代のことを書いたひとりとして、ヴァルター・ベンヤミンをふと思い出し、『子どものための文化史』を本棚の奥から出してみた。1988年、晶文社刊、美しい。出たときに「キミはこういうのが好きだろ」と言って、編集長だった津野海太郎さんがくれた。

野村修の訳者のあとがきに、次の一節を見つけて、うれしい。(それこそ、余談だが)
「余談になるが、微小で繊細な筆跡を矜りにしていたかれは、だいじな原稿はすべて手書きにしていたのだが、一九三〇年前後からはそのさいに机を用いず、(喫茶店んで書くのでないかぎり)ソファーに寝そべって書くのをつねにした、という。この習慣は終生続いたらしい。」
# by suigyu21 | 2024-07-01 16:52 | Comments(0)

覚えている?

五月なかばの快晴の土曜日、昼過ぎに地下鉄を降りて地上に出ると、銀座通りはほどよい人出の歩行者天国だった。約束の時間まで10分ほどあったが、銀座四町目の交差点からほど近い集合場所のレストランのあるビルの前を見ると、すでにわたし以外の四人がそろっている。全員が後期高齢者なので、やはり目立つ。彼らは高校の同期生。この20年ほど、なぜだか年に一度か二度くらい会って食事することになっている。

現役のころはよく接待に使ったんだよ、と幹事役が予約してくれた店で、お得なランチと日本酒を味わいながら、話すことはやがて当然のように高校のころの思い出になる。さまざまなあの時、というのは全員が経験しているのだが、半世紀以上の時がすぎた今、その細部についての記憶は人それぞれで、まったく一致しないのはどうしてなのだろうか。自分の記憶は正しく、相手の記憶は記憶違いだとそれぞれが言う。ずっと思い込んできた記憶を相手の言うように書き換えることはとても難しい、歳をとればとるほどに。ささいな笑い話のような出来ごとでもこうなのだから、事件や裁判などになれば、さらに頑なになるかもしれない。

そもそも記憶というのがどのようなものなのかもよくわからない。そのときの経験だけが記憶としてのこっているという単純なことではないのはなんとなくわかる。こどものころのことはおとなから聞いた話が自分の経験として記憶になっていたりする。たとえ思い出すことはなくても、いろんな経験が記憶を熟成させ、育ててもいて、機会があればそれが吹き出すのかもしれない。

3年日記をはじめて二ヶ月が過ぎた。小さなスペースにメモ書きのようにその日のことを少しだけ書いているが、何をどのようにどの程度まで書いておくのがいいのか、まだスタイル?が定まらない。今年をとりあえず書けば、来年は前の年の同じ日に書いたことを読みながら書ける。それをちょっとだけ楽しみにしながら空白を埋めている。


# by suigyu21 | 2024-06-01 16:46 | Comments(0)