水牛だより

おいしいね

とてもおいしい夕食をごちそうになった。若いシェフがひとりでやっている、カウンターとテーブル席ひとつの小さなイタリアン・レストランだ。何度か繰り返し行っているけれども、なんだか特別においしかった。アスパラガスのソテーの上に軽くスモークしたフォアグラの薄切りがのっていたりしてすばらしいのだった。

満足のあまり少し後ろめたさを感じながら帰宅した翌日、自分で作った夕食が失敗だった。三つくらいおかずを作ったが、どれもおいしいとは言いがたい。それでもみんなですべて食べた。おいしく出来ることもあれば、そうでないこともある。生きていく勤めとしての食事だと思うからか、「失敗です」とか言いながら食べるおかずはあまり残念な気はしない。ことしの夏のように暑くても、毎日二度か三度は食事をしているのだから、おいしいものばかりというのは苦しいと思う。そんな経験はしたことがないからそう思うだけなのかもしれないが、毎日かんたんに食べられればそれでいいのだ。自宅をレストランのようにしたくない。したいと思っても出来ないから心配はない。


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# by suigyu21 | 2018-09-01 17:09 | Comments(0)

夏に読まなくてもいい本

バスの窓から、タルチョがはためくマンションの部屋が見える。どんな人が住んでいるのかな?

『奥のほそ道』(リチャード・フラナガン)『草薙の剣』(橋本治)『津波の霊たち』(リチャード・ロイド・パリー)『千の扉』(柴崎友香)『東京の肖像』(ピーター・ポパム)『ルパンの世界』(ジャック・ドゥルワール)などを続けて読んだ8月。
おもしろそうと思って図書館で借りた『奥のほそ道』は分厚い。主人公はタスマニア出身のドリゴという。背が高くハンサムということなのだが、ドリゴという名前の音感からは想像しにくく、なによりもそこが最初の読みにくい要因だった。そのうち書評がいくつか出たので、図書館には予約がどんどん増えていく。このまま途中で挫折したら二度と読まないだろうと思って、返却日までに意識的に最後まで読んでみることにしたら、読めた。ドリゴという名前についての違和感は最後まで残ったが、期日が決まっているのはよいことでもある。積読不可だから。読みたいと買った『ガルヴェイアスの犬』(ジョゼ・ルイス・ペイショット)は積んであるままだ。tsundokuが国際語になったというニュースを読んで、笑いました。

「Tsundokuは日本語で、直接のシノニム(同意語)を英語に持たない」
「コレクションを作ろう、という意思があるのがビブリオマニア。本を読もうとして、結果的にコレクションを作ってしまうのがTsundoku」


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# by suigyu21 | 2018-08-20 19:24 | Comments(0)

ほんとうはさよならはいらない

春の終わりに訃報が届いた。あ、と思って、一月に届いた「ひかりのはこ 9」をもう一度開く。出来上がると彼女がいつも送ってくれた詩のリーフレットだが、受け取ったときに、封筒に万年筆で書かれた私の住所がいつもとちょっと違っているように思えたことを思い出す。これまでより弱々しい字だったのだ。このときすでに具合が悪かったのだな。

そして、詩のなかに「さようなら」の文字を、あらためて、見る。
「空の時間」という詩から。


 ・・・
 空はやがてみんなの住むところ
 ひとびとの精神(スピリッツ)が
 生きているところ。

 輝きながらわたしの中にある
 マグネシウムや鉛や亜鉛や鉄や
 コバルトや錫や銅は
 この星に残り
 精神(スピリッツ)は空といっしょに
 この星を包む。
 ・・・

 あたらしい大きな白い雲
 こんにちは。
 そしてさようなら。
 ほんとうはさよならはいらない。
 ひとびとと永遠に住んでいる
 空の時間の中では。


片山令子さんとはじめて会ったのは、友部正人さんとカラワンとのコンサートでだったと思う。たぶん1980年代のいつか。偶然となりの席にすわった。そしてなにか話して、お互いに興味を持ったのだろう、住所を交換したのだった。それから文通が始まったか、というと、そんなことはなく、仕事のあれこれを、お互いに送りあって、今年までそれが続いた。ダンスやコンサートの会場でばったり会うことが何度かあったけれど、それこそ「こんにちは。そしてさようなら。」で、実際に話した機会は多くない。会って話そうと思えばできたのに、お互いにそうしなかった。たぶん積極的に。

淡い関係といっていいのかもしれないが、しかしそれは持続した関係だったから、ある意味では強い関係ともいえる。「故人の意向により、病気のことはお知らせしていませんでした。」とのことで、それもまったく令子さんらしいと思った。喪失感は強いが、異議はありません。

初夏を通りこして、朝から真夏のような光が輝いている。外を歩いているときに空から降ってくるキラキラした陽射しを全身にあびていると、ときどき彼女のスピリッツを感じる。だからほんとうに、さよならはいらない。


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# by suigyu21 | 2018-06-30 21:14 | Comments(0)

水に映る影とその影を浮かべている水

『ハウスキーピング』(マリリン・ロビンソン 篠森ゆりこ訳 河出書房新社)を読んだ。ハウスキーピングが家事のことだとすれば読む気にならないタイトルだけど、この小説では家事ではなく、家族のつながりが主題となっている。家族とは血のつながりだ。語り手の女の子は母を自殺で失い、その自殺した母は父を鉄道事故で失っている。母は自分が運転する自動車で湖に飛び込む。その父は湖にかかる橋から乗車していた鉄道ごと湖に落ちた。

湖と水は人間たちとともに主人公であって、その描写が美しくもおそろしい。洪水に見舞われた家の中で火をおこすところや、湖を小舟でいくシーンなど、大量の水は脅威でありながら、人にとって落ち着いた優しさもある。

「そして現在の瞬間というのは、いつも人の考えにすぎない。考えはそれを生む瞬間と関係があり、その関係は大きさや重さにおいて、水に映る影とその影を浮かべている水の関係に等しい。考えも影も、同じように偶然によるものか、ただの受け身だ。かがんで水たまりを覗きこむ人は誰もが水たまりの中の女になり、私たちの目を覗きこむ人は、誰もがその目に映る影になる。これらに反論の余地はない。このように私たちの考えは、前をとおりかかったものを映し出している。でもそれだけではすまない難しさがある。」

水に映る影とその影を浮かべている水の関係、がこの小説を貫いている。そしてそれはこの世界の構造といってもいいだろう。登場人物はまだ生きているようでもあり、すでに死んでいるようでもある。自殺した人や鉄道事故に合った人だって、水中で生きているのかもしれない。生死は明言されていないが、曖昧なのではなく、名言されないままでいいのだった。

この小説に惹かれて、次に『ギレアド』を読み始めたが、こちらは宗教がからんでいるせいか、すぐに挫折した。残念なことだなあ。しばらくしてからもう一度読んでみようか。


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# by suigyu21 | 2018-05-28 13:58 | Comments(0)

五月が導く

自宅の裏にある大きなスダジイが一気に花開いた。むせるような花の匂いが一本の大木の周囲に広く満ちている。夜に降った雨でどうなったか、雨が止んだのでドアをあけてみたら、だいじょうぶ、まだ匂っているどころかさらに生臭さをおびた強い匂いになっている。今夜は小さな白い花で木が白っぽく膨張している。生命力という言葉を思う。

片山廣子は青空文庫で偶然に出合った。
青空文庫のトップページの右上に「www.aozora.gr.jp 内を検索」という窓があり、検索をいろいろと楽しめる。作家や作品を探すという目的が決まっているときはもちろん役立つ機能だが、たわむれになにか語句を入れてみると、図書カードや作品中にその語句が使われているところが表示される。

あるとき、五月、という語句を入力して検索してみたら、ものすごくたくさんの検索結果のなかに「或る国のこよみ」があって、読みにいった。それが片山廣子との始まりの一歩で、収録されているどれも短いエッセイをすべて読んだ。はじめて読んだ「或る国のこよみ」は翻訳者として、短歌を詠む人として、そしてエッセイストとして片山廣子の三つのエッセンスが詰まっていたのだった。これらのエッセイが収録されている書籍の『燈火節』(つまり、青空文庫に収録されているエッセイの底本です)もちゃんと読んだ。『火の後に』という翻訳集成も出ている。小説や詩、戯曲を訳していることは知っていたけれど、ミステリーも訳していることをこの本で知って、うれしい。

デジタルでもこんなふうな本(?)との出合いがあることを強調しておきたい。書店でお目当ての本の隣りにある本につい目がいって、おもしろそうと思って読んでみたら大当たり、という経験と少しだけ似ているし、それ以上でもあると感じた。検索という機能はこれからもっと深まっていくに違いない。たぶん、おそらく、きっとね。


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# by suigyu21 | 2018-04-28 21:16 | Comments(0)

すてきなピンクいろ

貧乏をどのように生きるかを考えることは、貧乏をどのように抜け出すかを考えるよりずっと楽しく役にも立つ。

この場合の貧乏は貧困とは違うし、もちろん赤貧とも違う。明日には死ぬかもしれないなら、楽しいなどと言ってはいられない。そこはひとまず置いておき、赤ではなくピンク色の貧乏がよい、と言ったのは片山廣子だった。近くに住むお金持ちのおばあちゃんが井戸に飛び込んで死んだことを知り、「あの人がこんなにきれいな家の人でなく、もつと貧乏なもつときうくつな生活をしてゐたら、死ななかつたらうと思つたのである。」「たとへ僅かの物でも手に持つことは愉しい。のんきな気もちで人から貰った金では自分が苦労して取つた物ほどたのしい味がないやうだ。びんばふといふものには或るたのしさがある。幸福といふ字も当てはまるかもしれない。死んだおばあちやんはびんばふは知らないで死んでしまつた。」

片山廣子のこのエッセイは「赤とピンクの世界」というタイトルで、6ページほどのもの。おしまいにまたグッとやられてしまう。「このピンク色の世界に住むこともずゐぶん苦しいけれど、びんばふだからいざ死なうといふ気にはなれない。私は欲も得もすつかりは忘れきれない人間だから、懐中になにがしかのお金を持つてゐれば、そのお金のあるあひだは生きてゐるだらう。赤貧となつては、土に投げ出されたお池の鯉のやうに死ぬよりほか仕方があるまい。死ぬといふことは悪い事ではない、人間が多すぎるのだから。生きてゐることも悪い事ではない、生きてゐることをたのしんでゐれば。」

そして森茉莉はさらに貧乏のよさを細部にまで広げた人だ。『贅沢貧乏』な身の回りと、『貧乏サヴァラン』のおいしさ。ピンク色のびんばふにのんきに安住していきたい。なんとか貧乏を抜け出したお金持ちを見てみれば、彼らの辞書には安住ということばはなさそうで、だからなのか、ケチだと思う。ぜんぜん魅力を感じない。


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# by suigyu21 | 2018-03-31 21:48 | Comments(0)

謎を生きている

新しい年が明けて、ほぼひと月たち、ようやく新しい年なのだなと実感できるようになった。もう2017年ではないと感じるようになった、というほうが正確かもしれない。

今年になってすでに2度もコンサートに行った。両方ともクラシックの名曲のコンサートだったが、目の前で演奏される音楽はその場での生きものだからいいなと思う。音は生まれるはしから消えていくが、わたしも生きているからちゃんとそれを受けとめることができる。

東京でも冬らしく雪が積もった。行くはずだったところに行けず、会うはずだった人に会えず。家に閉じ込められたからといって特になにかが出来るわけでなく、窓ごしに降り積もる雪を見ているだけで満足していた。夜になると雪景色は美しさを増す。

新年を迎える前後には久しぶりに会う人もたくさん。こどものころからの知り合いと会い、最近知り合った人にも会い、時間というものはとめどなく流れているものではない、とかいうよくわからない量子力学だったかな、そういう学問の言い分を信じたくなった。しかし時間が実在しないのなら、年齢とはなんだろう。生きていることは謎だらけです。


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# by suigyu21 | 2018-01-30 21:13 | Comments(0)

そして、その後

引き算レシピを読んでくれた編集者から、食べ物に限定しないで、青空文庫の収録作品と関連するエッセイを書いてみないかと言われた。本を読むのは好きだけれど、とくに系統だてて読んでいるわけではないし、そうたくさん読んでいるわけでもない。たんに自分がおもしろそうだと思うものだけを読んでいる。自分の好みだから言うまでもなく偏っているのだが、そういうものでさえも読み切れないほどたくさんあるのがこの世界というものだ。

そういう感じで書いたものが以下に残っている。

  手紙

  たけのこ

  略歴

  犬

  明日の天気

  歩行

  ボタン(あるいは月夜の浜辺)


一冊にまとめましょうと言われたのだったが、編集の仕事が忙しくなって、書くどころではなくなってしまった。でもこうしてかけらのようなものがネットの隙間にひっかかっているのが自分らしく思える。


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# by suigyu21 | 2017-12-07 20:27 | Comments(0)

引き算レシピ12 塩をつける

食べようと手に持っただけで、すでにすっぱい。すぼまった口の中には唾液が充満してくる。梅干ではありません、夏みかんです。

十代に達するまでにまだ二、三年はあったあのころ、夏みかんが好物だった。いまなら「超」とつけたいほどの強い酸味に少しの苦さ。小皿に盛った塩をたっぷりとなすりつけて一個まるまるをひとりで食べ終わるころには、塩と酸の作用によって唇は真っ白にふくれあがり歯はギシギシになる。でも少女の想像上の麻薬の効果のように全身は爽快となる。

クエン酸プラス塩分を摂取して元気になったのね、と今の知識で説明はできるが、あの味はもう今はない。右肩上がりの経済状態と比例して甘さが好まれるようになって、夏みかんは甘夏に人気を奪われた。いま夏みかんと呼ばれているのは甘夏のことであり、昔の夏みかんとはちがう。夏みかんを愛した者にとっては甘夏はなんだか中途半端な味がする。

正式には夏橙という名を持つ夏みかんは、一七〇〇年ごろに山口県長門市の海岸に漂着した種子から広く栽培されるようになったという。文旦の血を引く自然雑種、と分類されている。いったいどこから海を渡ってやって来たのだろう。名も知らぬ遠き島より、と思いたいところだが、近いところから流れ着いたのではないだろうか。あまりロマンチティックな気持ちにはなれないのは、みかんという味からはみだすエキゾティックな要素がなかったからだ。それに四国や九州では江戸時代から文旦は栽培されていたようだし。

果物は完熟していやが上にも甘くなったものより、ちょっと手前の未熟な青い感じの味が好ましい。初めてタイを訪れたのはもう四半世紀も前のことだが、そのとき未熟のマンゴーやグアバを食べる習慣があることを知ってうれしかった。カットされて売っているまだ固い果実には必ず塩と唐辛子が入った小さなビニール袋がついていて、それをつけて食べるのだ。おいしさが複雑になって、いくらでも食べられるのが難点だった。

夏みかんになすりつけていたのは専売公社が売っていた真っ白な「食塩」だった。塩といえばそれしかなかったあのころ。一九九七年に専売法が廃止され、さらに二〇〇二年には完全自由化されて、日本や世界のいろんな土地のいろんな種類の塩が手に入るようになった。ほんの微量のミネラル分がそれぞれの土地の塩の味を際立たせているのを確かめるのは楽しい。赤い粘土が混ざってオレンジ色したハワイの塩をつけた夏みかんはどんな味がするのだろうか。色のとりあわせがきれいで、いかにもおいしそうだ。

岡本かの子に「百喩経」という小品がある。その「前言」によれば、「百喩経(ひゃくゆきょう)は、仏典の比喩経のなかの愚人(仏教語のいわゆる決定性(けつじょうしょう))の喩(たと)えばかりを集めた条項からその中の幾千を摘出したものである。但し経本には本篇の小標題とその下の僅々二三行の解説のみより点載しては無い。本文は全部其処(そこ)からヒントを得た作者の創作である」。岡本かの子は仏教研究者でもあった。

十あるコントの最初は「愚人食塩喩」で、「塩で味をつけたうまい料理をよそで御馳走になった愚人がうちへ帰って塩ばかりなめて見たらまずかった」という解説の後に展開するのは、なんにも味のない気になる若い男に「すこし塩をつけて喰べてみ」たらどうなったか、というおはなし。当然、未熟の果物のようにおいしいだけですむはずはないのでした。おとなしい男にはすこしの塩でも利きすぎることを忘れてはいけない。


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# by suigyu21 | 2017-12-07 18:10 | Comments(0)

引き算レシピ11 かつおの皮

ある初夏に友人が作る彼の母親直伝のかつおのたたきをごちそうになったことがある。かつおの刺身を大きな皿の真ん中に並べて、その上から、きうり、ねぎ、しょうが、にんにく、みょうが、しそ、などを細切りにした青い薬味を山ほどかけて、最後にしゃもじでその山を叩いて形を整えたら、摘みたての木の芽をのせる。それが彼の家の「たたき」の流儀だという。青くきれいな薬味の山の上からポン酢をかけて、食べる。青い味がかつおとなじんでさっぱりとおいしかった。

かつおのたたき、というと、皮ごと藁で焼いたものをまず思い浮かべる。魚介類の表面にちょっと火を通すと旨みが増すのは知っているが、かつおの場合は皮が特に重要な気がする。

「かつおは皮がおいしい」と宣言しているのは東京・田園調布でパテ屋という惣菜屋を営む林のり子さんだ。かつおを刺身にするとき、皮は捨てられる。捨てられる運命の皮を魚屋に予約して取っておいてもらう。それを焼いて、青い薬味をたっぷりかけたもの、つまりかつおの皮のたたきがおいしいというのだ。香ばしさと歯ざわりが想像のなかで跳ね上がる。

鹿児島の枕崎港では遠洋漁業でとられたかつおが水揚げされて、鰹節に加工される。大量に残った皮は塩蔵にする。多めの塩をふり、一晩漬け込んで次の日にさっと水で洗い、その後むしろの上で乾燥させる。焼いたりゆでたりしてさつまいもといっしょに食べるのだそうだ。脂がのっていておいしいらしい。無駄なく食べる、土地の伝統食ともいうべきもの、一度は味わってみたい。

かつおはつねに群れとなって暖かい海を回遊している。黒潮にのって初夏に北上するのが初がつおで、秋に南下してくるのが戻りがつお。群れの移動は速い。時速は約三十キロという研究結果があるようだ。群れでこの速度だから、襲われたりして、一匹で必死に逃げるときにはその十倍くらいの速度が出るという。自転車と新幹線くらいの違いがある。

かつおの体型をあじやさばと比べるてみると、あきらかにお腹まわりが太い。完全にちかい紡錘型なのだ。これはもちろん速さに関係している要因だ。さらに。魚にはあるまじきことに、かつおの皮膚にはほとんどウロコがない。体を保護するためのウロコを退化させることで水に対する抵抗を弱めて速く泳ぐ。

何のためにそんなにも速く回遊しなければならないのか理解できないが、ウロコをなくすというかつお自身の引き算によって、皮は食べやすいのだとわかってきた。捨てられた皮にウロコがついていたら、食べるところまで到達できそうもない。

江戸に生まれた初もの好きな文化は「目には青葉山時鳥(ほととぎす)初松魚(かつお)」(山口素堂)と詠まれたが、江戸っ子の長谷川時雨に批判されていることも覚えておかなければいけません。

   *

利鞘をとつて衣食し、肥る商人を賤しめたのを、江戸の市井でうまれた「川柳」が、初鰹でもつてよく語つてゐる。
  初鰹女の料(れう)る魚でなし
  初鰹旦那ははねがもげてから
  初鰹煮て喰ふ氣では値がならず
  初鰹得心づくでなやむなり
  初鰹値をきいて買ふ物でなし
「はねがもげてから」は飛ぶやうに賣れる勢のいいうち買はないといふことであり、「煮て喰ふ氣」はさしみにする品は高いからであり、「得心づくでなやむ」のは安かれ惡かれ、中毒(あた)るのを承知で買つた、といふ皮肉で、平日貧乏人と見下される側から、旦那側の、金持ち吝嗇をあざけつたものだ。
(長谷川時雨「初かつを」)

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# by suigyu21 | 2017-12-07 18:09 | Comments(0)