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水牛だより

何もしない

ゴールデンウィーク初日の朝、換気のためにドアをあけると、ちょっと生臭いスダジイの花の匂いに満ちた外気が一気に家のなかに入ってくる。きのうはそんなことはなかったから、花は今朝から開いたのだろう。匂いはいつも開花のはじまりが際立っている。スダジイの大きな樹は集合住宅の裏に一本だけある。見に行ったら、緑に近い黄色の花の色で、樹の表面がけむっていた。これからもっと咲く気配だ。

人々はゴールデンウィークで忙しそうだ。せっかくのおやすみなのに、ますます忙しく、疲れそう。ジェニー・オデル『何もしない』という本を読んで、生まれながらに持っている性癖が覚醒してしまった感じ。忙しさから逃れて、できれば寝て暮らしたい。

何かひとつ仕事がおわると、次は何をしようかなと考えてしまう。資本主義に毒されているのだろうけれど、次に何をしようかと考えるのは楽しいことでもある。が、「しない」方向にシフトしてみたいと思うようになった。

ケネス・グレアム『たのしい川べ』は1908年に書かれた。自分のこどものためのおはなしのようだ。前世紀初頭にすでにこんなふうに書かれている。そう、「ぼくらは、いつもいそがしい」だからこそ「それをやりたきゃ、やるのもいいさ。だけど、やらないほうが、まだいい」

どこかへ出かけようが、出かけまいが、目的地へつこうが、ほかのところへいってしまおうが、それともまた、どこへもつくまいが、ぼくらは、いつもいそがしい。そのくせ、これといって、特別のしごとがあるわけじゃない。そして、一つのことをやってしまうと、また、なにかやることがある。だから、それをやりたきゃ、やるもいいさ。だけど、やらないほうが、まだいい。(ケネス・グレアム『たのしい川べ』 石井桃子訳 岩波書店)


# by suigyu21 | 2022-04-29 21:20 | Comments(0)

春なのに

はじめて買ったジョージアのワインはおいしかった。やさしくまろやかで、気持ちよく飲めてしまう。酔いはしばらくあとからほんのりとやってくる。そしてその酔いの感じもやさしい。最近岩波ホールでジョージア映画祭があり、その作品をすべて見た、という若い友人に一本プレゼントしようと思う。若いエネルギーがきらきらしている人と会うのはうれしい。

晴れてあたたかく乾燥している日に、寝具などを洗濯する。太陽のおかげですぐに乾いて、清潔になる。それだけで気分は爽快だ。

友人が土佐文旦を送ってくれた。愛媛で育った彼女は柑橘類についてくわしい。こどものころはみかんよりも夏みかんのほうが好きだった。それから、八朔。柑橘類でも皮の黄色い大きめのが好き、と彼女には伝えてある。文旦はおいしい。さっぱりとしているので、食べたあと体のなかがきれいになる感じがする。

同い年の友人からコロナに罹った、とメールが来る。お互いに後期高齢者だから、罹ったら死ぬかもしれないね、と言い合っていた。軽くすんで回復してからの知らせだったからホッとして、免疫ができてよかったね、と返事。正しく恐れることはもちろん大事だけど、正しく恐れないことも必要ですね。

仕事はぼちぼちと、少しだけ続けていて、特に問題なく進んでいる。そのためには私だって少しは努力をしているつもり。

毎朝のささやかな贅沢のため、電車を乗り継いで、4つ目の駅までコーヒー豆を買いにいく。深く焙煎したばかりの豆はバッグに入れても持ち歩いているときも芳しいアロマをまきちらしてくれる。

『ペンギンの憂鬱』を読み始める。著者のアンドレイ・クルコフはウクライナのロシア語作家。いまの大統領は芸人だったし、ウクライナのユーモアを思う。

わたし(たち)の人生はこうした小さな出来事のつらなりにすぎないのかもしれないが、だからといって一方的な暴力によってこうした日常を奪われたくはない。きょうは武器関連企業の株価が上昇しているらしい。スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの本のタイトルのように「戦争は女の顔をしていない」のだ。


# by suigyu21 | 2022-03-01 14:27 | Comments(0)

歩くとわかる

自宅から歩いて10分ほどのところに大型のスーパーマーケットがある。このあたりではもっとも大きく、もっとも新しい店舗だ。チーズの売り場には、うすくスライスしたミモレットがある。熟成したチーズの固さと薄さがとてもよくておいしい、赤ワインといっしょだとさらにおいしい。だからときどきこれだけを目当てに買いにいく。チーズ売り場のとなりは当然のようにワインのコーナーで、開店当時から片隅にジョージアワインが置いてあることを知っていた。少しずつ売れて、残り2種類それぞれ2本ずつになっていたので、はじめて一本買った。

おもに大型の集合住宅が連なる住宅地に出来たスーパーマーケットは住んでいる人たちにとってはありがたいことだろう。自宅からすぐのところには小さなスーパーマーケットがある。床面積は大型のものの十分の一くらいしかないが、ふだんはなんとかそこで間に合わせている。でもそこにはミモレットはないから、ときどきは足を延ばすわけだ。

歩いていく道は住宅地なので、退屈だから、左右をよくよく眺めて、おもしろそうなものを探してしまう。最近建った一軒家があり、黒っぽい色の建材で四角くおおわれていて、窓がひとつもない。いや正確には北側の壁に細い小さな切れ込みのようなガラスがあるが、あれはとても窓とは呼べないと思う。一日中ずうっと外からのあかりのない家なのかと驚いてしまうが、しかし、建築中に一度見たところでは、黒っぽい囲いのなかにはちゃんと庭があって、木が2、3本植えてあった。そして、建物の上部はなににも覆われていなかったから、そこからは外に通じていたのだ。完成した家がどんな構造になっているのかわからないが、もしかしたら、居住部分も窓がないかわりに、屋根は透明で開閉もできるのかもしれないと想像してみる。自分とはまったく関係のない家のことだけれど、そうだったら少しホッとする。

歩いていく道の左右には一軒家や集合住宅しかない。ある集合住宅の道路に面したちいさな片隅はいつ通っても、色とりどりの小さな花が咲いている。花は可憐に咲いているが、なんとなく無造作な感じが好もしくて、いつも見とれる。植えられた花は枯れるまで放置されて、のびのびと寿命をまっとうしているのだと思う。その花壇の写真、上ふたつは先月、下ふたつは昨日撮影した。愛らしい。

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# by suigyu21 | 2022-01-31 20:19 | Comments(0)

きみとぼくと

2021年最後の日。いつものように、夫が淹れてくれる朝のコーヒーを味わってから起き上がり、コンピューターをオンにする。そしていろんなことばを目にするのもいつものとおりだ。きょうは見知らぬ人のこんなひと言にであった。

「国も社会も、誰も助けてくれない2022年を、せめて、きみとぼくと助けあって、言葉をうけとりあって、生きていかなければ。」

わたしはときには「きみ」であり、ときには「ぼく」でもあるだろう。助けあい、言葉をうけとりあい、生きていく。そうすれば、暗い暗〜い2022年にだって小さく灯る火はある、かな?


# by suigyu21 | 2021-12-31 21:44 | Comments(0)

ステイ・ホーム

ステイ・ホームと言われて、できるだけ家に閉じこもっていたわけだけれど、どうしても一日に一度は外に出ないと、生きていけないという気がした。生活が成り立たないとも思った。家というのは雨風を気にしないで安楽に寝られるスペースであって、そこには家族がいたりいなかったりするが、必ずしも家だけがホームというわけではないのだった。ホームとは家から広がった一帯を指すと思うようになったのは、家に閉じこもる時間が多くなったからかもしれない。

家は、東京に限らず都市ならどこでもたいへんに狭い。生活のすべてをそこでまかなうのはとうてい無理だ。だから、生活は家の外に広がっている。あたらしく必要になった食べるものや着るものも、外にしかない。外に出ていき必要なものをゲットしなければ、生活は成り立たない。その外の部分を含めたところが、いわばホームだ。狩猟採集民と同じではないか。都市の生活と狩猟採集社会の生活はじつは似ている。スーパーマーケットやコンビニは近くにあるとても豊かな森のよう。なんでもあるからといって、そのとき必要でないものは採集しない。でもはじめて見るジャンク・フードは一度は買ってみる。いろんな人が行き来する森はみんなのホームの一部だから、大事にしなければならない。

自分は狩猟採集民だという意識をできるだけ強く持ち続けて、簡素なその日暮らしを生きてみたい。冬でも夏でも、晴れているなら明るい時間の半分くらいは家の外で暮らしたい。そんなステイ・ホームなら、文句はありません。

# by suigyu21 | 2021-12-01 16:34 | Comments(0)