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水牛だより

8月1日、夏がはじまる

何日かぶりでレースのカーテンごしに朝の太陽の光が届く。部屋のなかの余分な水分が蒸発していく感じでとても気持ちいい。そのまま顔もあらわずに寝床でごろごろして、ずっと本を読みたいと思うけれど、きょうは水牛の更新の日なので、そうもいかない。

きのうは午後、久しぶりに片岡義男さんと会って、コーヒーを2杯ずつ飲んだ。最近よく行くそのコーヒー屋はいまはテイクアウトのみ。でも店舗の外に小さな木のベンチが置いてあるので、そこに腰掛けて紙コップのコーヒーを飲む。差し向かいでなく、横に並んで飲むのもなかなかいいものだ。道行く男の人が私たちを見て足をとめ、あまりにおいしそうだから僕もコーヒーを飲みます、と行ってお店に入っていった。ちょっとだけ売上げに貢献したのだ。

片岡さんは「世界に一本だけのボールペンです」と言って、カランダッシュのボールペンをくれた。もとは何色だったのか、その塗装をわざわざナイフで削り落とし、その後にサンドペーパーで磨いたという。いわば裸のカランダッシュはきれいな銀色だ。きれいだし、ほんとうに世界に一本だけのボールペンだけれど、片岡さん、ヒマなんですね。。。

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# by suigyu21 | 2020-08-01 11:40 | Comments(0)

親指シフトキーボードを使う人

「富士通株式会社は、親指シフトキーボード3製品、および日本語ワープロソフト「OASYS V10.0」、日本語入力ソフト「Japanist 10」の販売を2021年中に終了し、2024年または2026年にサポートを終了すると発表した。」

というニュースを読んだのはついこの間のことだ。はじめて使った日本語ワープロは1990年代の前半だったと思うが、「OASYS」だった。当時月刊で発行していた「水牛通信」の版下を、ワープロで作ってしまおう、ということになって、そのためにデスクトップ型の高価な「OASYS」を買ったのだった。親指シフトキーボードは使いはじめて、すぐに慣れた。日本語の入力に特化されているので、慣れると対談なども、聞きながら入力できるようになった。記憶媒体は8インチのフロッピーディスクで、ペラペラのディスクが紙の袋に入っていた。

そんな20世紀の後半から21世紀になって、片岡義男さんと仕事をするようになった。片岡さんも親指シフターだった。原稿は、フロッピーディスクで郵送されてくる。封筒に入っているディスクはもう3.5インチでプラスチックケースに入っていて、一枚のこともあり、数枚のこともあった。私はそのころは「OASYS」のワープロではなく、すでにAppleのデスクトップ型のパソコンを使うようになっていた。DTPが必要になっていたからだ。親指シフトはすっかり忘れて、ローマ字入力に移行していた。当時のパソコンにはまだフロッピーディスクリーダーがついていた。フロッピーディスクサイズの入り口(?)が本体の横にあいていて、そこにディスクを差し込むと、中身を読み取ってくれる。

そのうち、買い替えたパソコンはデスクトップ型からノートに変わり、薄く軽くなって、フロッピーディスクを読み取るための入り口はなくなってしまった。フロッピーディスクに入る程度の容量はネットで受け取れるようになっていたのだ。しかし片岡さんからはあいかわらずフロッピーディスクが送られてくる。しかたなく外付けのフロッピーディスクリーダーを買った。なにひとつ、問題はない。

数年ほどたって、片岡さんは親指シフターだからなのだろう、富士通のパソコンを使うようになった。片岡さんが「使う」のは、私にとっては原稿がメールで届く、という意味だ。こちらからもメールを送ることができるようになったのだ。しかし、片岡さんは原稿を送るための装置としてメールを使っているだけで、こちらからの返信を待っていたりはしないのだった。

片岡さんからメールで届く原稿は、すべて添付書類だ。どういうシステムなのか訊いてみたところ、原稿はOASYSのワープロ機器で書く。そのワープロには通信機能がついていないので、原稿をフロッピーディスクにコピーして(あるいはワープロの記憶媒体がフロッピーディスクなのかもしれない)、そのフロッピーディスクに入ったテキストファイルをパソコンで読み取ってメールで送る、ということだったと思う。受け取ったメールを開くと、一つから数個くらいまでのテキスト書類が添付されているだけで、メールの本文にあたるものはない。まず添付書類を保存して、それから開いてみる。ワープロで書いたそのままに、原稿は20字で改行されている。その設定は行数で原稿の分量がわかるからに違いない。受け取る側にとっては、20字ごとの改行は必要のないものなので、まずは削除するが、段落は活かさなければならず、注意が必要な最初の作業だ。さらに親指シフトに特有の誤入力にも注意する。

外付けのフロッピーディスクリーダーは不要になって、片岡さんに進呈した。いまも現役かもしれないし、そうでないかもしれない。ローマ字入力は慣れてみればどうということもないですよ、と言ったけれど、安易に移行しないところが片岡さんの片岡さんらしいところ。未使用のOASYSが一台、戸棚のなかに確保してあるらしい。起動してみると、動かないかもしれないですよ、などと言ってみても、見事にぜんぜん動じません。

片岡さんからはときたま、原稿以外のメールが届く。そして、そのメールの本文はもちろん、20字詰めの添付書類となっている。メールをもらうのはうれしい。が、送るための原理がわかるだけに、お手数をおかけしました〜、という気持ちにもなります。


# by suigyu21 | 2020-05-31 20:08 | Comments(0)

『暇なんかないわ 大切なことを考えるのに忙しくて』

少し前のこと。久しぶりに大型書店に行って、翻訳文学のコーナーを見渡す。そこが好きだから。隣は日本の小説のコーナーで、とてもたくさんの新刊書が並べられている。翻訳書のスペースはその2割くらいしかない。でもそのコーナーに並んでいる本は一冊一冊の主張が強い。タイトルと著者の名前そして翻訳者の名前も見る。

この日はその小さなコーナーに平積みにされていたなかに、アーシュラ・K・ル=グウィンが淡く笑っている顔が見えた。『暇なんかないわ 大切なことを考えるのに忙しくて』の表紙だった。ずっと愛読してきた作家で、二〇一八年に亡くなってからの新刊、となれば買う。晩年に書いていたブログからの収録というのにも興味を惹かれる。自分が書いているこのようなブログとどんなに違うのだろうか。

私にはルーマニア人の友人がひとり、いる。だからルーマニアの、特に文学については無関心ではいられない。いつも微弱なアンテナを立てている。いまはそこにひっかかった『方形の円 偽説・都市生成論』が机の上にある。ギョルゲ・ササルマンという著者の名前ははじめて知った。訳者の住谷春也という名前はもうおなじみだ。お世話になっております。

ギョルゲ・ササルマンについては、もちろんなにも知らなかった。この小説は36の架空の都市について書かれている。もちろんみなフィクションだ。SFの要素もある。まずはじめに「日本の読者へ」と題されたまえがきがある。「人間の集落に固有の建築・都市構造の空間性を視覚化する描写に力を入れることを通じて、私は言語の障壁をいくらかでも回避しようとしました。こうすることで、言語のより抽象的な層を振動させようと試みたのです。それは、一般的な意味が浸透し、普遍性があり、ほかの民族語に移転させ易い層です。」
日本語版だけでなく、フランス語版にもスペイン語版にもそれぞれみじかいまえがきがあり、それも本文の後に掲載されている。そして、その後に英語版の序文があり、それを書いているのはアーシュラ・K・ル=グウィンなのだった。スペイン語から英語に(36編のうちの24編を)翻訳したのもアーシュラ・K・ル=グウィンなのだった。

このような偶然のようなめぐり合わせは、私にとってはうれしい驚きだ。世界がぎゅっと凝縮したように感じられたり、世界が小爆発したように広がる感じもある。『方形の円 偽説・都市生成論』の小説の部分は読んでいるけれど、あまりよくわからない。わからないということは大事だなと思う。


# by suigyu21 | 2020-03-31 20:28 | Comments(0)

本と本と本と

ジーン・リースが長年ベッドで執筆する習慣だったと『天才たちの日課女性編』で知り、寝て読書をするし、その日最初のコーヒーはできるだけ寝床で飲む習慣のわたしはベッドの方面に向けてもう少し努力するべきだと思った。

同じ本で、売れっ子作家だったドロシー・パーカーが、書くことが嫌いで、締め切りをほとんど守れなかったことも知る。「あるインタビューで「やっていて楽しいことはなんですか」ときかれたときに、「書くこと以外はぜんぶ楽しい」と答えている。」というくらい徹底している。書くことが嫌いな人はどんなことをどんなふうに書くのだろうかと興味を持ち、近くの図書館で検索してみた。そして借りたのは『ガラガラヘビの味 アメリカ子ども詩集』(アーサー・ビナード/木坂涼編訳 岩波少年文庫)だ。ドロシー・パーカーの詩は「美しいバラ一輪」と「快楽主義の欠点」の2編が収録されている。「快楽主義の欠点」というタイトルはすばらしい。

この詩集のなかのエミリー・ディキンスンは、「いちばん心が通じるのは(My best acquaintances are those)/言葉で話したことのない相手。」といっている。そう思うこと、あるなあ。

そしてシェル・シルヴァースタインの「おなじようなもの(No Difference)」

ピーナツほど小さくても
巨人ほどでっかくても
明かりを消せば大きさなんか
たいしてかわりがない。

王さまくらい金持ちでも
イエダニくらい貧乏でも
明かりを消せば価値なんか
たいしてちがわない。

肌の色が黒でも黄色でも
赤、オレンジあるいは白でも
明かりを消せば外見なんか
にたようなもの。

ひょっとしたらこの世の
たくさんの問題をかたづけるには
神さまが手をのばして
パチンと明かりを消すのがいいかも!

  * *

これらの詩がまだ頭のなかにただよっているときに、与那国の小さな出版社カディブックスから『くらやみに、馬といる』(河田桟)がやってきた。郵便受けから封筒を出して、差出人の住所に八重山郡与那国町の文字を見るうれしさといったら! エレヴェーターのなかで封筒をあけ、部屋に入って、ベッドではなく、立ったままで読み始め、そのまま読み終えた。くらやみ(No Difference)と馬(My best acquaintances are those)についての言葉に、わたしがなにかを付け加えてはいけないといまは感じるので、本のおしまいのほうにある断片を引用しておくことにする。

「やさしいくらやみはどこまでも広がっている。境界線はない。正しさも誤ちもない。善も悪もない。幸せも不幸せもない。よりよくも、よりわるくもならない。あらゆる存在が溶け合いながらそこにある。あらゆるものが変わり続けている。」


# by suigyu21 | 2019-12-01 13:37 | Comments(0)

鳥の声

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朝、晴れていて空が明るんでくると、いつも上方の決まった方向から金属性の大きな音が聞こえてきて、覚醒モードになる。隣りの集合住宅の最上階に住んでいる人がデジタル音を好んで出しているのかと思っていたが、半分眠りながらよく聞いていると、それは一羽か二羽の鳥の声だった。

鳥の声は隣りの集合住宅の壁に反射して聞こえてくるのだと思う。そのことがわかれば、角度から鳥がどこにいるのかもわかる。確かにそこには大きな木が一本あるのだ。それにしてもたった一羽のあの声の大きさはどうだ。鳥も朝だと元気があるのか、あるいは大きな声を出さなければならない必要があるのかもしれない。鳥の生態を調べてみよう。

バリ島で泊まった部屋のすぐ近くに大きな木があった。夜明けとともにその木で眠っていたらしいたくさんの鳥がいっせいに鳴きだして、とても眠っていられないほど騒々しい。でもこちらが起きて朝食を食べるころにはどこかに飛んでいってしまって、翌朝まで静かになる。どこでどうしているのかな。

歩いているとき、木から鳥の鳴き声が聞こえることがあるけれど、鳥の姿を見つけるのはむずかしい。ときどき静かに木から姿を見せている集団がいる。思わずシャッターを押してからしばらく見惚れた。


# by suigyu21 | 2019-10-01 21:06 | Comments(0)

キミは誰ですか?

同年代の女性の友人に会いに行った。横浜のはずれにある彼女の家に到着すると、結婚して遠くに行ったはずの娘がいる。私が知らないだけだったのか、生まれたばかりのような小さな男の子を抱いている。赤ん坊が男の子であることになぜだか疑いはない。久しぶりに会ったので、あれこれ話していると、赤ん坊が手をのばして、私のところに来たがっているのみたいだった。おいで、と両手を差し出して抱いてみると、不思議なほどに手足が長い。赤ん坊の体としてはバランスが悪いなあ。ためしに彼の長くまっすぐな脚を伸ばしてみると、ほとんど私の脚とおなじ長さまでどんどん伸びていく。キミは誰なの? と思った一瞬ののちには丸々としたふつうの赤ん坊に戻っていた。そして、かわいい。

午後の明るい光に満ちた林を歩いていく。はじめてのところだけれど、なんとなく懐かしい気持ちがする。ここまでどうやって来たのだろう。向こうから古い知り合いの彼が歩いてくる。以前より若くなったみたいだ。微笑みあってから、いつもそうするように彼の右手を握ると、あたたかい。そしてそのまま二人で歩いていく。歩きながらときどき彼の目を見るだけで、なにも話さない。あれ? キミはとっくに死んだんじゃなかったけ? と思いながら、でも手を離さずにゆっくりと歩いていく。

一晩のうちに見たふたつの夢のことをこうして書いてみると、なんだかばかばかしい感じがしてくる。脳内の出来事なのに、存在しないはずの赤ん坊の脚がするすると伸びていく感触と、死んだはずの彼の手のあたたかさが、目覚めたあとも肉体の感覚として残っているのがなんとも不思議で、そのために夢をずっと覚えている。
# by suigyu21 | 2019-06-01 20:48 | Comments(0)

光と影と

外出するとき、天気がよければカバンに小さなデジカメを入れる。スマホで写真を撮る人が増えたので、すでに絶滅したであろうスマホよりも小型のカメラだ。カメラを持っていると、撮るべき被写体がちゃんと私を呼んでくれる。歩みをとめて撮るのは風景の一部分が多い。生物のように動いているものは、シャッターチャンスを見極めるのがむずかしい。ときにそのチャンスに恵まれることはあるけれど、シャッターを押したときにはすでに遅いことが多い。つまり、下手、なのだ。

図書館の裏に鯉の池がある。色の派手なのや地味なのや、大きな鯉がそこで生きている。通りがかったときに、岸の近くに群れていたので、写真に撮ってみた。カメラのモニターで確かめると、いい感じだった。次にそこを通ったときには快晴だったので、鯉が近くに来るのをしばらく待って、また撮った。鯉は人の気配で寄ってくるようにも思える。ずっと人間の近くで生きているのだものね。何枚か撮ってからモニターで確認すると、よく写っていない。前に撮ったときは曇っていたので、きょうのほうがよく撮れそうな気がしていた。私の眼では水の中を泳ぐ鯉たちはちゃんと見えていたけれど、水が太陽からの直射光を反射しているために、カメラでは水中はよく写らないのだった。鯉を撮るなら曇の日にするべきことをまなんだ。そして、そのときから太陽光というものをきちんと意識するようになった。

そんな観察眼がとらえた光と影の一枚をここに載せよう。近くにファミリーレストランがあり、よくその前を通る。レストランは二階にあり、建物の下の一階は駐輪場になっていて、なぜか床は緑色に塗られている。午後の太陽の光がどこかの隙間から緑色のコンクリートの床に届いていた。その端に、レシートが落ちていて、少し湾曲している。その影がくっきりとある。ただそれだけの写真だが、立ち止まってシャッターを押した。光と影が作る偶然の一瞬を自分では気に入っている。見てもらった少数の友人たちは、これはなに? とか、意味不明、とか言っている。

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# by suigyu21 | 2019-02-24 20:00 | Comments(0)

片岡義男の『あとがき』

発売からすでにひと月が過ぎようとしているが、片岡義男『あとがき』の編集に携わった。本に出来て、よかった。

片岡さんの書籍には、あとがきがついているものが多い。エッセイだけでなく、小説にもついている。そして、それがおもしろいのだった。最初に「を!」と思ったのは『僕が書いたあの島』(1995 太田出版)というエッセイ集の長いあとがきだった。エッセイ集なのに、自分の書く小説について書いてある。どのようにしていまのような小説を書くようになったのか、という論考として読んだ。

次にあとがきについてしばし考えたのは『エンドマークから始まる』『私の風がそこに吹く』(いずれも2001 角川文庫)を読んだときだった。短編小説集のあとがきで、これらも小説論だが、書く側だけでなく小説を読む側まで考えが及んでいる。

あとがきを集めてみれば、片岡さんの小説論が出来上がると思った。それが『あとがき』の出発点だった。考えたのは20年近く前で、いつもなんとなくぼんやりと頭の中にあったけれど、20年を経てまとめられたということは、その20年の間に書かれたあとがきが加わっていることでもあるから、そのほうがいい。

あとがきは依頼されなければ書かないし、書くときはたいてい怒っている、と片岡さんは言っている。編集サイドからすると、著者に初校を見てもらうときに字数を含めて正式にあとがきをお願いするのが作業の流れの常だ。でも著者である片岡さんにとってはその本はすでに終わっているもの。あとがきのために少し戻って考えなくてはならない時差が「たいてい怒っている」ことの理由かもしれない。

それでも、片岡さんのあとがきのおもしろさには抗しきれず、今回の『あとがき』にもまた「あとがきを書いてくださいね」とお願いした。それからの経緯は『あとがき』の「あとがき」に詳しく書かれている。まず「あとがきを書いてください」という依頼のひとことが短編小説のタイトルとなったのだが、なぜこれがタイトルになりうるのか、なぜ片岡さんの小説脳を刺激したのかよくわからない。小説の内容についても、きちんと説明されているけれど、どこかわからなさが残るのはいつものことで、むしろそのわからないところこそがおもしろい。「あとがきを書いてください」という短編は実際に書かれて、片岡義男.comで公開されている。ぜひ読んでみてください。→ 「あとがきを書いてください」

本ができたあとで、この『あとがき』は、私と同じように、「あとがきを書いてください」と依頼した編集者たちのひとことがあったからこそ実現したのだとあらためて思った。『あとがき』はそのクロニクルであり、アーカイヴでもある。


# by suigyu21 | 2018-11-01 21:10 | Comments(0)

おいしいね

とてもおいしい夕食をごちそうになった。若いシェフがひとりでやっている、カウンターとテーブル席ひとつの小さなイタリアン・レストランだ。何度か繰り返し行っているけれども、なんだか特別においしかった。アスパラガスのソテーの上に軽くスモークしたフォアグラの薄切りがのっていたりしてすばらしいのだった。

満足のあまり少し後ろめたさを感じながら帰宅した翌日、自分で作った夕食が失敗だった。三つくらいおかずを作ったが、どれもおいしいとは言いがたい。それでもみんなですべて食べた。おいしく出来ることもあれば、そうでないこともある。生きていく勤めとしての食事だと思うからか、「失敗です」とか言いながら食べるおかずはあまり残念な気はしない。ことしの夏のように暑くても、毎日二度か三度は食事をしているのだから、おいしいものばかりというのは苦しいと思う。そんな経験はしたことがないからそう思うだけなのかもしれないが、毎日かんたんに食べられればそれでいいのだ。自宅をレストランのようにしたくない。したいと思っても出来ないから心配はない。


# by suigyu21 | 2018-09-01 17:09 | Comments(0)

夏に読まなくてもいい本

バスの窓から、タルチョがはためくマンションの部屋が見える。どんな人が住んでいるのかな?

『奥のほそ道』(リチャード・フラナガン)『草薙の剣』(橋本治)『津波の霊たち』(リチャード・ロイド・パリー)『千の扉』(柴崎友香)『東京の肖像』(ピーター・ポパム)『ルパンの世界』(ジャック・ドゥルワール)などを続けて読んだ8月。
おもしろそうと思って図書館で借りた『奥のほそ道』は分厚い。主人公はタスマニア出身のドリゴという。背が高くハンサムということなのだが、ドリゴという名前の音感からは想像しにくく、なによりもそこが最初の読みにくい要因だった。そのうち書評がいくつか出たので、図書館には予約がどんどん増えていく。このまま途中で挫折したら二度と読まないだろうと思って、返却日までに意識的に最後まで読んでみることにしたら、読めた。ドリゴという名前についての違和感は最後まで残ったが、期日が決まっているのはよいことでもある。積読不可だから。読みたいと買った『ガルヴェイアスの犬』(ジョゼ・ルイス・ペイショット)は積んであるままだ。tsundokuが国際語になったというニュースを読んで、笑いました。

「Tsundokuは日本語で、直接のシノニム(同意語)を英語に持たない」
「コレクションを作ろう、という意思があるのがビブリオマニア。本を読もうとして、結果的にコレクションを作ってしまうのがTsundoku」


# by suigyu21 | 2018-08-20 19:24 | Comments(0)