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水牛だより

キミは誰ですか?

同年代の女性の友人に会いに行った。横浜のはずれにある彼女の家に到着すると、結婚して遠くに行ったはずの娘がいる。私が知らないだけだったのか、生まれたばかりのような小さな男の子を抱いている。赤ん坊が男の子であることになぜだか疑いはない。久しぶりに会ったので、あれこれ話していると、赤ん坊が手をのばして、私のところに来たがっているのみたいだった。おいで、と両手を差し出して抱いてみると、不思議なほどに手足が長い。赤ん坊の体としてはバランスが悪いなあ。ためしに彼の長くまっすぐな脚を伸ばしてみると、ほとんど私の脚とおなじ長さまでどんどん伸びていく。キミは誰なの? と思った一瞬ののちには丸々としたふつうの赤ん坊に戻っていた。そして、かわいい。

午後の明るい光に満ちた林を歩いていく。はじめてのところだけれど、なんとなく懐かしい気持ちがする。ここまでどうやって来たのだろう。向こうから古い知り合いの彼が歩いてくる。以前より若くなったみたいだ。微笑みあってから、いつもそうするように彼の右手を握ると、あたたかい。そしてそのまま二人で歩いていく。歩きながらときどき彼の目を見るだけで、なにも話さない。あれ? キミはとっくに死んだんじゃなかったけ? と思いながら、でも手を離さずにゆっくりと歩いていく。

一晩のうちに見たふたつの夢のことをこうして書いてみると、なんだかばかばかしい感じがしてくる。脳内の出来事なのに、存在しないはずの赤ん坊の脚がするすると伸びていく感触と、死んだはずの彼の手のあたたかさが、目覚めたあとも肉体の感覚として残っているのがなんとも不思議で、そのために夢をずっと覚えている。
# by suigyu21 | 2019-06-01 20:48 | Comments(0)

光と影と

外出するとき、天気がよければカバンに小さなデジカメを入れる。スマホで写真を撮る人が増えたので、すでに絶滅したであろうスマホよりも小型のカメラだ。カメラを持っていると、撮るべき被写体がちゃんと私を呼んでくれる。歩みをとめて撮るのは風景の一部分が多い。生物のように動いているものは、シャッターチャンスを見極めるのがむずかしい。ときにそのチャンスに恵まれることはあるけれど、シャッターを押したときにはすでに遅いことが多い。つまり、下手、なのだ。

図書館の裏に鯉の池がある。色の派手なのや地味なのや、大きな鯉がそこで生きている。通りがかったときに、岸の近くに群れていたので、写真に撮ってみた。カメラのモニターで確かめると、いい感じだった。次にそこを通ったときには快晴だったので、鯉が近くに来るのをしばらく待って、また撮った。鯉は人の気配で寄ってくるようにも思える。ずっと人間の近くで生きているのだものね。何枚か撮ってからモニターで確認すると、よく写っていない。前に撮ったときは曇っていたので、きょうのほうがよく撮れそうな気がしていた。私の眼では水の中を泳ぐ鯉たちはちゃんと見えていたけれど、水が太陽からの直射光を反射しているために、カメラでは水中はよく写らないのだった。鯉を撮るなら曇の日にするべきことをまなんだ。そして、そのときから太陽光というものをきちんと意識するようになった。

そんな観察眼がとらえた光と影の一枚をここに載せよう。近くにファミリーレストランがあり、よくその前を通る。レストランは二階にあり、建物の下の一階は駐輪場になっていて、なぜか床は緑色に塗られている。午後の太陽の光がどこかの隙間から緑色のコンクリートの床に届いていた。その端に、レシートが落ちていて、少し湾曲している。その影がくっきりとある。ただそれだけの写真だが、立ち止まってシャッターを押した。光と影が作る偶然の一瞬を自分では気に入っている。見てもらった少数の友人たちは、これはなに? とか、意味不明、とか言っている。

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# by suigyu21 | 2019-02-24 20:00 | Comments(0)

片岡義男の『あとがき』

発売からすでにひと月が過ぎようとしているが、片岡義男『あとがき』の編集に携わった。本に出来て、よかった。

片岡さんの書籍には、あとがきがついているものが多い。エッセイだけでなく、小説にもついている。そして、それがおもしろいのだった。最初に「を!」と思ったのは『僕が書いたあの島』(1995 太田出版)というエッセイ集の長いあとがきだった。エッセイ集なのに、自分の書く小説について書いてある。どのようにしていまのような小説を書くようになったのか、という論考として読んだ。

次にあとがきについてしばし考えたのは『エンドマークから始まる』『私の風がそこに吹く』(いずれも2001 角川文庫)を読んだときだった。短編小説集のあとがきで、これらも小説論だが、書く側だけでなく小説を読む側まで考えが及んでいる。

あとがきを集めてみれば、片岡さんの小説論が出来上がると思った。それが『あとがき』の出発点だった。考えたのは20年近く前で、いつもなんとなくぼんやりと頭の中にあったけれど、20年を経てまとめられたということは、その20年の間に書かれたあとがきが加わっていることでもあるから、そのほうがいい。

あとがきは依頼されなければ書かないし、書くときはたいてい怒っている、と片岡さんは言っている。編集サイドからすると、著者に初校を見てもらうときに字数を含めて正式にあとがきをお願いするのが作業の流れの常だ。でも著者である片岡さんにとってはその本はすでに終わっているもの。あとがきのために少し戻って考えなくてはならない時差が「たいてい怒っている」ことの理由かもしれない。

それでも、片岡さんのあとがきのおもしろさには抗しきれず、今回の『あとがき』にもまた「あとがきを書いてくださいね」とお願いした。それからの経緯は『あとがき』の「あとがき」に詳しく書かれている。まず「あとがきを書いてください」という依頼のひとことが短編小説のタイトルとなったのだが、なぜこれがタイトルになりうるのか、なぜ片岡さんの小説脳を刺激したのかよくわからない。小説の内容についても、きちんと説明されているけれど、どこかわからなさが残るのはいつものことで、むしろそのわからないところこそがおもしろい。「あとがきを書いてください」という短編は実際に書かれて、片岡義男.comで公開されている。ぜひ読んでみてください。→ 「あとがきを書いてください」

本ができたあとで、この『あとがき』は、私と同じように、「あとがきを書いてください」と依頼した編集者たちのひとことがあったからこそ実現したのだとあらためて思った。『あとがき』はそのクロニクルであり、アーカイヴでもある。


# by suigyu21 | 2018-11-01 21:10 | Comments(0)

おいしいね

とてもおいしい夕食をごちそうになった。若いシェフがひとりでやっている、カウンターとテーブル席ひとつの小さなイタリアン・レストランだ。何度か繰り返し行っているけれども、なんだか特別においしかった。アスパラガスのソテーの上に軽くスモークしたフォアグラの薄切りがのっていたりしてすばらしいのだった。

満足のあまり少し後ろめたさを感じながら帰宅した翌日、自分で作った夕食が失敗だった。三つくらいおかずを作ったが、どれもおいしいとは言いがたい。それでもみんなですべて食べた。おいしく出来ることもあれば、そうでないこともある。生きていく勤めとしての食事だと思うからか、「失敗です」とか言いながら食べるおかずはあまり残念な気はしない。ことしの夏のように暑くても、毎日二度か三度は食事をしているのだから、おいしいものばかりというのは苦しいと思う。そんな経験はしたことがないからそう思うだけなのかもしれないが、毎日かんたんに食べられればそれでいいのだ。自宅をレストランのようにしたくない。したいと思っても出来ないから心配はない。


# by suigyu21 | 2018-09-01 17:09 | Comments(0)

夏に読まなくてもいい本

バスの窓から、タルチョがはためくマンションの部屋が見える。どんな人が住んでいるのかな?

『奥のほそ道』(リチャード・フラナガン)『草薙の剣』(橋本治)『津波の霊たち』(リチャード・ロイド・パリー)『千の扉』(柴崎友香)『東京の肖像』(ピーター・ポパム)『ルパンの世界』(ジャック・ドゥルワール)などを続けて読んだ8月。
おもしろそうと思って図書館で借りた『奥のほそ道』は分厚い。主人公はタスマニア出身のドリゴという。背が高くハンサムということなのだが、ドリゴという名前の音感からは想像しにくく、なによりもそこが最初の読みにくい要因だった。そのうち書評がいくつか出たので、図書館には予約がどんどん増えていく。このまま途中で挫折したら二度と読まないだろうと思って、返却日までに意識的に最後まで読んでみることにしたら、読めた。ドリゴという名前についての違和感は最後まで残ったが、期日が決まっているのはよいことでもある。積読不可だから。読みたいと買った『ガルヴェイアスの犬』(ジョゼ・ルイス・ペイショット)は積んであるままだ。tsundokuが国際語になったというニュースを読んで、笑いました。

「Tsundokuは日本語で、直接のシノニム(同意語)を英語に持たない」
「コレクションを作ろう、という意思があるのがビブリオマニア。本を読もうとして、結果的にコレクションを作ってしまうのがTsundoku」


# by suigyu21 | 2018-08-20 19:24 | Comments(0)

ほんとうはさよならはいらない

春の終わりに訃報が届いた。あ、と思って、一月に届いた「ひかりのはこ 9」をもう一度開く。出来上がると彼女がいつも送ってくれた詩のリーフレットだが、受け取ったときに、封筒に万年筆で書かれた私の住所がいつもとちょっと違っているように思えたことを思い出す。これまでより弱々しい字だったのだ。このときすでに具合が悪かったのだな。

そして、詩のなかに「さようなら」の文字を、あらためて、見る。
「空の時間」という詩から。


 ・・・
 空はやがてみんなの住むところ
 ひとびとの精神(スピリッツ)が
 生きているところ。

 輝きながらわたしの中にある
 マグネシウムや鉛や亜鉛や鉄や
 コバルトや錫や銅は
 この星に残り
 精神(スピリッツ)は空といっしょに
 この星を包む。
 ・・・

 あたらしい大きな白い雲
 こんにちは。
 そしてさようなら。
 ほんとうはさよならはいらない。
 ひとびとと永遠に住んでいる
 空の時間の中では。


片山令子さんとはじめて会ったのは、友部正人さんとカラワンとのコンサートでだったと思う。たぶん1980年代のいつか。偶然となりの席にすわった。そしてなにか話して、お互いに興味を持ったのだろう、住所を交換したのだった。それから文通が始まったか、というと、そんなことはなく、仕事のあれこれを、お互いに送りあって、今年までそれが続いた。ダンスやコンサートの会場でばったり会うことが何度かあったけれど、それこそ「こんにちは。そしてさようなら。」で、実際に話した機会は多くない。会って話そうと思えばできたのに、お互いにそうしなかった。たぶん積極的に。

淡い関係といっていいのかもしれないが、しかしそれは持続した関係だったから、ある意味では強い関係ともいえる。「故人の意向により、病気のことはお知らせしていませんでした。」とのことで、それもまったく令子さんらしいと思った。喪失感は強いが、異議はありません。

初夏を通りこして、朝から真夏のような光が輝いている。外を歩いているときに空から降ってくるキラキラした陽射しを全身にあびていると、ときどき彼女のスピリッツを感じる。だからほんとうに、さよならはいらない。


# by suigyu21 | 2018-06-30 21:14 | Comments(0)

水に映る影とその影を浮かべている水

『ハウスキーピング』(マリリン・ロビンソン 篠森ゆりこ訳 河出書房新社)を読んだ。ハウスキーピングが家事のことだとすれば読む気にならないタイトルだけど、この小説では家事ではなく、家族のつながりが主題となっている。家族とは血のつながりだ。語り手の女の子は母を自殺で失い、その自殺した母は父を鉄道事故で失っている。母は自分が運転する自動車で湖に飛び込む。その父は湖にかかる橋から乗車していた鉄道ごと湖に落ちた。

湖と水は人間たちとともに主人公であって、その描写が美しくもおそろしい。洪水に見舞われた家の中で火をおこすところや、湖を小舟でいくシーンなど、大量の水は脅威でありながら、人にとって落ち着いた優しさもある。

「そして現在の瞬間というのは、いつも人の考えにすぎない。考えはそれを生む瞬間と関係があり、その関係は大きさや重さにおいて、水に映る影とその影を浮かべている水の関係に等しい。考えも影も、同じように偶然によるものか、ただの受け身だ。かがんで水たまりを覗きこむ人は誰もが水たまりの中の女になり、私たちの目を覗きこむ人は、誰もがその目に映る影になる。これらに反論の余地はない。このように私たちの考えは、前をとおりかかったものを映し出している。でもそれだけではすまない難しさがある。」

水に映る影とその影を浮かべている水の関係、がこの小説を貫いている。そしてそれはこの世界の構造といってもいいだろう。登場人物はまだ生きているようでもあり、すでに死んでいるようでもある。自殺した人や鉄道事故に合った人だって、水中で生きているのかもしれない。生死は明言されていないが、曖昧なのではなく、名言されないままでいいのだった。

この小説に惹かれて、次に『ギレアド』を読み始めたが、こちらは宗教がからんでいるせいか、すぐに挫折した。残念なことだなあ。しばらくしてからもう一度読んでみようか。


# by suigyu21 | 2018-05-28 13:58 | Comments(0)

五月が導く

自宅の裏にある大きなスダジイが一気に花開いた。むせるような花の匂いが一本の大木の周囲に広く満ちている。夜に降った雨でどうなったか、雨が止んだのでドアをあけてみたら、だいじょうぶ、まだ匂っているどころかさらに生臭さをおびた強い匂いになっている。今夜は小さな白い花で木が白っぽく膨張している。生命力という言葉を思う。

片山廣子は青空文庫で偶然に出合った。
青空文庫のトップページの右上に「www.aozora.gr.jp 内を検索」という窓があり、検索をいろいろと楽しめる。作家や作品を探すという目的が決まっているときはもちろん役立つ機能だが、たわむれになにか語句を入れてみると、図書カードや作品中にその語句が使われているところが表示される。

あるとき、五月、という語句を入力して検索してみたら、ものすごくたくさんの検索結果のなかに「或る国のこよみ」があって、読みにいった。それが片山廣子との始まりの一歩で、収録されているどれも短いエッセイをすべて読んだ。はじめて読んだ「或る国のこよみ」は翻訳者として、短歌を詠む人として、そしてエッセイストとして片山廣子の三つのエッセンスが詰まっていたのだった。これらのエッセイが収録されている書籍の『燈火節』(つまり、青空文庫に収録されているエッセイの底本です)もちゃんと読んだ。『火の後に』という翻訳集成も出ている。小説や詩、戯曲を訳していることは知っていたけれど、ミステリーも訳していることをこの本で知って、うれしい。

デジタルでもこんなふうな本(?)との出合いがあることを強調しておきたい。書店でお目当ての本の隣りにある本につい目がいって、おもしろそうと思って読んでみたら大当たり、という経験と少しだけ似ているし、それ以上でもあると感じた。検索という機能はこれからもっと深まっていくに違いない。たぶん、おそらく、きっとね。


# by suigyu21 | 2018-04-28 21:16 | Comments(0)

すてきなピンクいろ

貧乏をどのように生きるかを考えることは、貧乏をどのように抜け出すかを考えるよりずっと楽しく役にも立つ。

この場合の貧乏は貧困とは違うし、もちろん赤貧とも違う。明日には死ぬかもしれないなら、楽しいなどと言ってはいられない。そこはひとまず置いておき、赤ではなくピンク色の貧乏がよい、と言ったのは片山廣子だった。近くに住むお金持ちのおばあちゃんが井戸に飛び込んで死んだことを知り、「あの人がこんなにきれいな家の人でなく、もつと貧乏なもつときうくつな生活をしてゐたら、死ななかつたらうと思つたのである。」「たとへ僅かの物でも手に持つことは愉しい。のんきな気もちで人から貰った金では自分が苦労して取つた物ほどたのしい味がないやうだ。びんばふといふものには或るたのしさがある。幸福といふ字も当てはまるかもしれない。死んだおばあちやんはびんばふは知らないで死んでしまつた。」

片山廣子のこのエッセイは「赤とピンクの世界」というタイトルで、6ページほどのもの。おしまいにまたグッとやられてしまう。「このピンク色の世界に住むこともずゐぶん苦しいけれど、びんばふだからいざ死なうといふ気にはなれない。私は欲も得もすつかりは忘れきれない人間だから、懐中になにがしかのお金を持つてゐれば、そのお金のあるあひだは生きてゐるだらう。赤貧となつては、土に投げ出されたお池の鯉のやうに死ぬよりほか仕方があるまい。死ぬといふことは悪い事ではない、人間が多すぎるのだから。生きてゐることも悪い事ではない、生きてゐることをたのしんでゐれば。」

そして森茉莉はさらに貧乏のよさを細部にまで広げた人だ。『贅沢貧乏』な身の回りと、『貧乏サヴァラン』のおいしさ。ピンク色のびんばふにのんきに安住していきたい。なんとか貧乏を抜け出したお金持ちを見てみれば、彼らの辞書には安住ということばはなさそうで、だからなのか、ケチだと思う。ぜんぜん魅力を感じない。


# by suigyu21 | 2018-03-31 21:48 | Comments(0)

謎を生きている

新しい年が明けて、ほぼひと月たち、ようやく新しい年なのだなと実感できるようになった。もう2017年ではないと感じるようになった、というほうが正確かもしれない。

今年になってすでに2度もコンサートに行った。両方ともクラシックの名曲のコンサートだったが、目の前で演奏される音楽はその場での生きものだからいいなと思う。音は生まれるはしから消えていくが、わたしも生きているからちゃんとそれを受けとめることができる。

東京でも冬らしく雪が積もった。行くはずだったところに行けず、会うはずだった人に会えず。家に閉じ込められたからといって特になにかが出来るわけでなく、窓ごしに降り積もる雪を見ているだけで満足していた。夜になると雪景色は美しさを増す。

新年を迎える前後には久しぶりに会う人もたくさん。こどものころからの知り合いと会い、最近知り合った人にも会い、時間というものはとめどなく流れているものではない、とかいうよくわからない量子力学だったかな、そういう学問の言い分を信じたくなった。しかし時間が実在しないのなら、年齢とはなんだろう。生きていることは謎だらけです。


# by suigyu21 | 2018-01-30 21:13 | Comments(0)