買い物をして帰宅するためにバスを待つ。夕方に近い午後の時間、バス停にはわたしと同じような年寄りたちが並んでいる。このごろの年寄りは荷物が多い、いや年寄りにかぎったことではなく、誰もが重そうな荷物を持っている。ひとつのバス停に四つの行き先のバスが停まるため、行列は比較的長いことが多い。少し後ろに並んでいる男性が膝を折ってうずくまったのを見て、わたしの後ろにいた女性が「だいじょうぶですか? 前のほうにベンチがあるからあそこに座ったら?」と声をかける。「いや、だいじょうぶ、だいじょうぶ、ちょっと休んでいるだけだから」と男性は答える。「でも座ったほうがいいわよ」とさらに言う。それから少し声をおとしてわたしに向かって「ベンチまでいっしょに行ってもいいんだけど、でもね、連れていく途中でなにかあったら、あなた、こちらの責任になるのよ。だからあまり親切にしすぎてはだめよ」と言ったところにちょうどバスが来て、彼女はそれに乗っていってしまった。
ちょっと休んでいるだけだというとおり、自力ですっくと立ち上がったおじ(い)さんはわたしと同じ行き先のバスを待っているという。バスの乗り口まで20メートルくらいありそうだ。その乗り口のかたわらで数人が列を離れてバスを待っている。その人たちを見咎めて、おじ(い)さんが言う。「あいつら、乗るときは並んでるおれたちより先に乗るんだよ、見ててごらん。ばかやろー並べよ、と言ってやろうか」といったところでちょうどバスが来た。「そんなこと言ってないで、あの人たちより早く乗りましょう」とおじ(い)さんを先に乗せる。乗ってしまえばそれぞれあいている座席に腰かけるので、会話はそこまででおしまいとなる。
バスは電気バスだった。静かで車体もおおきく、乗り心地がよいから、当たりの気分だ。待っている人たちの人生が交錯するパワースポットなバス停を離れて、バスは快適に走り始める。
ちょっと休んでいるだけだというとおり、自力ですっくと立ち上がったおじ(い)さんはわたしと同じ行き先のバスを待っているという。バスの乗り口まで20メートルくらいありそうだ。その乗り口のかたわらで数人が列を離れてバスを待っている。その人たちを見咎めて、おじ(い)さんが言う。「あいつら、乗るときは並んでるおれたちより先に乗るんだよ、見ててごらん。ばかやろー並べよ、と言ってやろうか」といったところでちょうどバスが来た。「そんなこと言ってないで、あの人たちより早く乗りましょう」とおじ(い)さんを先に乗せる。乗ってしまえばそれぞれあいている座席に腰かけるので、会話はそこまででおしまいとなる。
バスは電気バスだった。静かで車体もおおきく、乗り心地がよいから、当たりの気分だ。待っている人たちの人生が交錯するパワースポットなバス停を離れて、バスは快適に走り始める。
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by suigyu21
| 2025-06-01 17:49
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四月の水牛更新を終えて、毎月一回送ってもらっている小泉農場の無農薬野菜の箱をあけると、たけのこが一本入っていた。近くのスーパーで小さな袋に入った米ぬかを売っているのは知っているが、採れたてみたいだったので、なにも入れずに茹でてみた。アクは少なめで、まったく問題なし。若竹煮とたけのこご飯でおいしく食べた。
札幌まで行ってきた。コロナのころは遠出はしなかったし、その前は母の介護があって遠出できず、飛行機に乗るのは10年ぶりくらい。果たしてちゃんと乗れるのか?と思ったけれど、同行者のおかげでなんとか無事に往復できた。飛行機は乗っている時間こそ短いが、乗るまでに時間がかかる。そして以前より座席が窮屈だと感じた。札幌駅では新幹線の工事がすすんでいたから、そのうち一度は新幹線でゆったりと行ってみたい。
白樺もまだ芽吹いていない札幌から帰ると、次の日の朝、裏の大きなスダジイの花が一気に咲いて、生臭い香りがあたり一面にただよった。近所の公園のなんじゃもんじゃの花も枝や葉をおおうようにもっこりとまっしろに咲いて、枝は花の重さで下にしなっている。満開のモッコウバラの垣根も見に行った。木々の若葉は太陽の光を反射して、生まれたばかりの緑いろに輝いている。
『パトリシア・ハイスミスの華麗なる人生』(アンドリュー・ウィルソン 柿沼瑛子訳 2024 書肆侃侃房)ぎっしり詰まった700ページを読み終える。図書館で借りたので、返却日が決まっているからその日までには、と決心して読んだ。ある種の締め切りみたいなもので、図書館で借りる良いところだ。ハイスミスが残したノートと手紙、著者によるゆかりの人たちのインタビューなどで構成されている。ゴロワーズと安いウイスキーを手放せなかった一生は「華麗なる人生」とは言い難い。取り上げられているところは少ないが、少し年上のアーサー・ケストラーとの友情だけは心に残った。その部分の引用を以下に。
「一九六九年一月に『変身の恐怖』の宣伝活動でロンドンを訪問した際、ジャーナリストたちはハイスミスの美貌が失われつつあることに気づいていた。「ガーディアン」紙は、彼女についてこう書いている。「肘掛け椅子に背中を丸めて座り、降り注ぐ光に、くたびれ果てた、ほとんどメキシコ人を思わせる姿がまざまざと浮かび上がった。両切りのゴロワーズをぎりぎりまで吸う。いまや白髪交じりのまっすぐな髪を手でかきまわし、毛先を逆立てる……」。ハイスミスは、この記事を「全体的にかなり誇張している」と書いたが、親しい友人でさえ、見た目の描写は正確だと認めざるをえなかった。アーサー・ケストラーの妻シンシアはロンドンのモントピリア広場の自宅でじかにハイスミスと会った後、「パットの顔にはかつての美しさがほとんど残っていない」と日記に記している。また、その後、BBCのトーク番組『レイト・ナイト・ラインナップ』のゲストのひとりとしてハイスミスが出演しているのを見て、「アーサーは、今の彼女をとてもよいと思っていた。これとははっきりいえないが、内面の正直さが顔にあらわれ始めているからだ」と書き加えている。」
月末の日曜日、友人の家でのたけのこパーティに誘われて、うれしく出かけていった。テーブルの上に並んでいる和風、洋風、中華風などの料理のすべてにたけのこが入っている。たけのこは彼らの家の庭に生えてくるもので、この日のために6本掘ったという。たけのこのパワーを満喫して、みな満足の顔。毎年おこなわれているこの催しはかつては酒類がなくてはならなかったのだが、今年はノンアルコールビールを飲む人が半数以上で、お持たせのシャンパンをみんなで一本あけた程度でおしまい。みんな歳をとったのだなあ。歳をとればアルコール摂取量は減っていくものなのに、ハイスミスは毎日朝からウィスキーを飲み、外出するときにはスキットルにウィスキーを入れて持ち歩き、ほぼ死ぬまで一日中飲み続けていたのだ、すごい!
この日は誰も記念写真を撮らなかったし、SNSに載せた人もいないだろう。すばらしい。
五月は『評伝ジョウゼフ・コンラッド-女性・アメリカ・フランス』(ロバート・ハンプソン 山本薫訳 2024 松柏社)を読もうと決めている。
札幌まで行ってきた。コロナのころは遠出はしなかったし、その前は母の介護があって遠出できず、飛行機に乗るのは10年ぶりくらい。果たしてちゃんと乗れるのか?と思ったけれど、同行者のおかげでなんとか無事に往復できた。飛行機は乗っている時間こそ短いが、乗るまでに時間がかかる。そして以前より座席が窮屈だと感じた。札幌駅では新幹線の工事がすすんでいたから、そのうち一度は新幹線でゆったりと行ってみたい。
白樺もまだ芽吹いていない札幌から帰ると、次の日の朝、裏の大きなスダジイの花が一気に咲いて、生臭い香りがあたり一面にただよった。近所の公園のなんじゃもんじゃの花も枝や葉をおおうようにもっこりとまっしろに咲いて、枝は花の重さで下にしなっている。満開のモッコウバラの垣根も見に行った。木々の若葉は太陽の光を反射して、生まれたばかりの緑いろに輝いている。
『パトリシア・ハイスミスの華麗なる人生』(アンドリュー・ウィルソン 柿沼瑛子訳 2024 書肆侃侃房)ぎっしり詰まった700ページを読み終える。図書館で借りたので、返却日が決まっているからその日までには、と決心して読んだ。ある種の締め切りみたいなもので、図書館で借りる良いところだ。ハイスミスが残したノートと手紙、著者によるゆかりの人たちのインタビューなどで構成されている。ゴロワーズと安いウイスキーを手放せなかった一生は「華麗なる人生」とは言い難い。取り上げられているところは少ないが、少し年上のアーサー・ケストラーとの友情だけは心に残った。その部分の引用を以下に。
「一九六九年一月に『変身の恐怖』の宣伝活動でロンドンを訪問した際、ジャーナリストたちはハイスミスの美貌が失われつつあることに気づいていた。「ガーディアン」紙は、彼女についてこう書いている。「肘掛け椅子に背中を丸めて座り、降り注ぐ光に、くたびれ果てた、ほとんどメキシコ人を思わせる姿がまざまざと浮かび上がった。両切りのゴロワーズをぎりぎりまで吸う。いまや白髪交じりのまっすぐな髪を手でかきまわし、毛先を逆立てる……」。ハイスミスは、この記事を「全体的にかなり誇張している」と書いたが、親しい友人でさえ、見た目の描写は正確だと認めざるをえなかった。アーサー・ケストラーの妻シンシアはロンドンのモントピリア広場の自宅でじかにハイスミスと会った後、「パットの顔にはかつての美しさがほとんど残っていない」と日記に記している。また、その後、BBCのトーク番組『レイト・ナイト・ラインナップ』のゲストのひとりとしてハイスミスが出演しているのを見て、「アーサーは、今の彼女をとてもよいと思っていた。これとははっきりいえないが、内面の正直さが顔にあらわれ始めているからだ」と書き加えている。」
月末の日曜日、友人の家でのたけのこパーティに誘われて、うれしく出かけていった。テーブルの上に並んでいる和風、洋風、中華風などの料理のすべてにたけのこが入っている。たけのこは彼らの家の庭に生えてくるもので、この日のために6本掘ったという。たけのこのパワーを満喫して、みな満足の顔。毎年おこなわれているこの催しはかつては酒類がなくてはならなかったのだが、今年はノンアルコールビールを飲む人が半数以上で、お持たせのシャンパンをみんなで一本あけた程度でおしまい。みんな歳をとったのだなあ。歳をとればアルコール摂取量は減っていくものなのに、ハイスミスは毎日朝からウィスキーを飲み、外出するときにはスキットルにウィスキーを入れて持ち歩き、ほぼ死ぬまで一日中飲み続けていたのだ、すごい!
この日は誰も記念写真を撮らなかったし、SNSに載せた人もいないだろう。すばらしい。
五月は『評伝ジョウゼフ・コンラッド-女性・アメリカ・フランス』(ロバート・ハンプソン 山本薫訳 2024 松柏社)を読もうと決めている。
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by suigyu21
| 2025-05-01 16:14
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眠るというのは毎晩の新しい体験だと感じることが多い。夢を見て目覚めてもそれを覚えているときは特にそう感じる。夜のあいだに、いったいわたしはどこにいたのだろうか?
朝おきたら、トイレにいって、それから顔を洗ったりする前にまずコーヒーを一杯飲む。目覚めてすぐのその日最初のコーヒーはいつだっておいしい。コーヒー豆は深煎りを好んでいて、買う店は決まっている。唯一のプチぜいたくかもしれない。でもね、よいコーヒーは冷めてもおいしいし、なんならチンしても味があまり落ちない。豆を厳選してぜいたくする意味があるばかりかこの朝のコーヒーこそ養生というものではないかと思う。
家での食事は季節の野菜と肉や魚や卵などのタンパク質とをその都度適当に炒めたり煮たり蒸したりするだけだが、夕食にはそれとともに日本酒かワインが一杯あればじゅうぶんという気がする。かの土井善晴先生も言っている、「ほんとうのところ、日本で素材を活かしてシンプルに食べているのは家庭なんですよ」と。でも友人たちとの外食の楽しさは決して忘れてはいない。
夕食を終えたら、次は入浴だ。養生についてのSNSなどを見ていると、夜はシャワーでなくお風呂に入り、少しでも早く寝る、この二つは例外なく勧められている。そうよね、と、寒いときには入浴剤を入れて、毎晩湯船に浸かる。あたたかいお湯でからだがふんわりしてくる。さらに眠るまであたたかさが保たれるからか、気持ちよく眠りにおちる。匂いや色が添加されていない入浴剤がもっとあるといいのにと思う。
寝る前にスマホを見るとか本を読むとか、刺激になることはまったくすすめられていない、というより禁止の項目のひとつだが、早めに横になったらやはり本を開いてしまう。すぐに眠くなってしまうこともあれば、反対に目が冴えてそのまま一冊読んでしまうこともある。そういうときには目は疲れるし寝不足にもなるけれど、それでもやはりわたしにとっては養生のひとつなのだと思うことにしている。
朝おきたら、トイレにいって、それから顔を洗ったりする前にまずコーヒーを一杯飲む。目覚めてすぐのその日最初のコーヒーはいつだっておいしい。コーヒー豆は深煎りを好んでいて、買う店は決まっている。唯一のプチぜいたくかもしれない。でもね、よいコーヒーは冷めてもおいしいし、なんならチンしても味があまり落ちない。豆を厳選してぜいたくする意味があるばかりかこの朝のコーヒーこそ養生というものではないかと思う。
家での食事は季節の野菜と肉や魚や卵などのタンパク質とをその都度適当に炒めたり煮たり蒸したりするだけだが、夕食にはそれとともに日本酒かワインが一杯あればじゅうぶんという気がする。かの土井善晴先生も言っている、「ほんとうのところ、日本で素材を活かしてシンプルに食べているのは家庭なんですよ」と。でも友人たちとの外食の楽しさは決して忘れてはいない。
夕食を終えたら、次は入浴だ。養生についてのSNSなどを見ていると、夜はシャワーでなくお風呂に入り、少しでも早く寝る、この二つは例外なく勧められている。そうよね、と、寒いときには入浴剤を入れて、毎晩湯船に浸かる。あたたかいお湯でからだがふんわりしてくる。さらに眠るまであたたかさが保たれるからか、気持ちよく眠りにおちる。匂いや色が添加されていない入浴剤がもっとあるといいのにと思う。
寝る前にスマホを見るとか本を読むとか、刺激になることはまったくすすめられていない、というより禁止の項目のひとつだが、早めに横になったらやはり本を開いてしまう。すぐに眠くなってしまうこともあれば、反対に目が冴えてそのまま一冊読んでしまうこともある。そういうときには目は疲れるし寝不足にもなるけれど、それでもやはりわたしにとっては養生のひとつなのだと思うことにしている。
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by suigyu21
| 2025-04-01 20:55
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小学校二年生のおわりから六年生で卒業するまで、東京の山手線高田馬場駅から徒歩数分のところで暮らした。家は父の会社の社宅だった。その戸建ての家に、父と母と弟だけでなく、父の母親と妹弟がいて、7人もいっしょに暮らしていたが、木造の家には今よりもずっとゆとりがあったのだろう、狭かったという感じは少しも残っていない。自分が小さかったせいもあるのかもしれない。
父は自分の父親を早くに亡くしたため、長男として一家の父親役もつとめていたようだ。祖母、叔母、叔父が同居していたのはそういう事情のためだった。叔母は会社勤めをしていたが、自分の時間も楽しんでいて、たまにスケートリンクに連れていってくれたり、見たこともない外国のすてきなお菓子やガムを分けてくれたりした。眠れない夜には彼女の3畳の部屋の布団にもぐりこんだりもした。
その日はみんなが家にいたのだから、日曜日だったのだろう。午後から叔母のお見合いだというので、朝からわくわくし、約束の時間が近づくと、どんな人が来るのだろうと、叔母とふたりで板塀にのぼって、何度も道を眺めたりした。好奇心の方向が似ている二人。
叔母のお見合いの相手の男の人はひとりであらわれた。若くもないし、特別ハンサムでもないその人は応接間の机を前にすわって、父や叔母とあれこれ話しながら、お酒を飲んでいる。わたしも最初にご挨拶をして、一度か二度はお酌をしたが、なんといっても小学生のお子さまだからすぐに部屋から追い出された。しばらくして、どうなってるのかなと思って部屋を覗きにいくと、なんと、おじさんは畳の上で毛布をかぶって眠っていたのだった。でも具合が悪いわけではなかったらしく、すっきりと目覚めて、上機嫌で帰っていった。
ほどなく二人は結婚した。急に叔父さんとなったその人は、会うたびにわたしを「おお、まなむすめ!」と呼ぶのだった。いつも陽気で上機嫌だったが、シベリアに抑留されていたことなどを次第に知るようになった。慰霊碑を建てる活動を熱心にしていたし、覚えたロシア語で貿易の仕事もしていた。遊びにいくと、こどものころは粉っぽい味のする真っ黒なソ連製のチョコレートをたくさんもらった。おとなになってからは、クラッカーに分厚くバターを塗り、その上にキャビアを乗せて、アルメニアのブランデーといっしょに味わう。ときどきかかってくる電話に叔父はロシア語で応えている。そばで聞いていてわかるのは「ハラショー!」というひとことだけだ。そして、アルコールのあとはいつも一眠りするのが叔父の決まり。起きると第二ラウンドがはじまる。
シベリアのことを知りたいと何度かきいてみたが、話してくれることはなかった。鈍感な愛娘にも叔父は話したくないのだということだけはわかるようになった。たったひとつ教えてくれたのは、どこででも眠れたから助かった、ということで、どこででも眠れるのは、初めて会ったその日からずっと知っているけれど、なかばは冗談だろうと思っていた。
長谷川四郎傑作選『鶴』(ちくま文庫 2025)が出たので、何年ぶりかでまた読もうと思ったのは、やはり叔父のことが頭にあるからだろう。まず編者の堀江敏幸さんの解説を開いた。読みはじめて、すぐに目にはいってきたのは次のところ。
「脱走とはなにか。それを明確に説明するのはむずかしい。長谷川四郎の描く脱走兵は、脱走の過程で出発点に舞い戻ってしまう不条理を生きるのだが、驚いたことに、トラックに乗せられて見知らぬ場所へ運ばれていくあいだにも彼らは睡眠をとっている。疲弊して眠るだけではない。眠りによる休止が脱走に不可々であることを、身を以て知っているのだ。やみくもに、まっすぐ「すたすたと」歩いて行くばかりでは脱走は成立しない。そもそも「鶴」で描かれる国境監視哨での「私」の任務がそうであったように、眠りを削られるのが下級兵士たちの宿命である。しかし長谷川四郎の脱走兵は眠る。眠っているから歩くことができる。眠りはすなわち小さな死であって、『鶴』の短篇には無防備と緊張のせめぎあいのうちに生まれる、いわば積極的な受動性が見られる。これは『シベリヤ物語』の語り手が身を置いた、通訳的な傍観者の立場と無関係ではないだろう。」
そうか、どこででも眠れるその眠りはそのたびに小さな死であって、しかしほどなく目覚めるのが眠りなのだった。叔父がたったひとつだけ教えてくれたことは冗談ではなかったとようやく思い知る78歳の愛娘の春。堀江さん、ありがとうございます。
叔父のこどもは二人とも男の子だったので、わたしの愛娘としての地位は彼が亡くなった今でも続いていると思っている。ハラショー!なのである。
父は自分の父親を早くに亡くしたため、長男として一家の父親役もつとめていたようだ。祖母、叔母、叔父が同居していたのはそういう事情のためだった。叔母は会社勤めをしていたが、自分の時間も楽しんでいて、たまにスケートリンクに連れていってくれたり、見たこともない外国のすてきなお菓子やガムを分けてくれたりした。眠れない夜には彼女の3畳の部屋の布団にもぐりこんだりもした。
その日はみんなが家にいたのだから、日曜日だったのだろう。午後から叔母のお見合いだというので、朝からわくわくし、約束の時間が近づくと、どんな人が来るのだろうと、叔母とふたりで板塀にのぼって、何度も道を眺めたりした。好奇心の方向が似ている二人。
叔母のお見合いの相手の男の人はひとりであらわれた。若くもないし、特別ハンサムでもないその人は応接間の机を前にすわって、父や叔母とあれこれ話しながら、お酒を飲んでいる。わたしも最初にご挨拶をして、一度か二度はお酌をしたが、なんといっても小学生のお子さまだからすぐに部屋から追い出された。しばらくして、どうなってるのかなと思って部屋を覗きにいくと、なんと、おじさんは畳の上で毛布をかぶって眠っていたのだった。でも具合が悪いわけではなかったらしく、すっきりと目覚めて、上機嫌で帰っていった。
ほどなく二人は結婚した。急に叔父さんとなったその人は、会うたびにわたしを「おお、まなむすめ!」と呼ぶのだった。いつも陽気で上機嫌だったが、シベリアに抑留されていたことなどを次第に知るようになった。慰霊碑を建てる活動を熱心にしていたし、覚えたロシア語で貿易の仕事もしていた。遊びにいくと、こどものころは粉っぽい味のする真っ黒なソ連製のチョコレートをたくさんもらった。おとなになってからは、クラッカーに分厚くバターを塗り、その上にキャビアを乗せて、アルメニアのブランデーといっしょに味わう。ときどきかかってくる電話に叔父はロシア語で応えている。そばで聞いていてわかるのは「ハラショー!」というひとことだけだ。そして、アルコールのあとはいつも一眠りするのが叔父の決まり。起きると第二ラウンドがはじまる。
シベリアのことを知りたいと何度かきいてみたが、話してくれることはなかった。鈍感な愛娘にも叔父は話したくないのだということだけはわかるようになった。たったひとつ教えてくれたのは、どこででも眠れたから助かった、ということで、どこででも眠れるのは、初めて会ったその日からずっと知っているけれど、なかばは冗談だろうと思っていた。
長谷川四郎傑作選『鶴』(ちくま文庫 2025)が出たので、何年ぶりかでまた読もうと思ったのは、やはり叔父のことが頭にあるからだろう。まず編者の堀江敏幸さんの解説を開いた。読みはじめて、すぐに目にはいってきたのは次のところ。
「脱走とはなにか。それを明確に説明するのはむずかしい。長谷川四郎の描く脱走兵は、脱走の過程で出発点に舞い戻ってしまう不条理を生きるのだが、驚いたことに、トラックに乗せられて見知らぬ場所へ運ばれていくあいだにも彼らは睡眠をとっている。疲弊して眠るだけではない。眠りによる休止が脱走に不可々であることを、身を以て知っているのだ。やみくもに、まっすぐ「すたすたと」歩いて行くばかりでは脱走は成立しない。そもそも「鶴」で描かれる国境監視哨での「私」の任務がそうであったように、眠りを削られるのが下級兵士たちの宿命である。しかし長谷川四郎の脱走兵は眠る。眠っているから歩くことができる。眠りはすなわち小さな死であって、『鶴』の短篇には無防備と緊張のせめぎあいのうちに生まれる、いわば積極的な受動性が見られる。これは『シベリヤ物語』の語り手が身を置いた、通訳的な傍観者の立場と無関係ではないだろう。」
そうか、どこででも眠れるその眠りはそのたびに小さな死であって、しかしほどなく目覚めるのが眠りなのだった。叔父がたったひとつだけ教えてくれたことは冗談ではなかったとようやく思い知る78歳の愛娘の春。堀江さん、ありがとうございます。
叔父のこどもは二人とも男の子だったので、わたしの愛娘としての地位は彼が亡くなった今でも続いていると思っている。ハラショー!なのである。
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by suigyu21
| 2025-03-01 13:11
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成田空港が開港したのは1978年だから、「三里塚空港廃港宣言の会」はその年に発足したのだったかな。代表の前田俊彦さんの著書『三里塚 廃港への論理』(柘植書房)は1978年に出版されている。「三里塚空港廃港宣言の会」通称「宣言の会」はベ平連の人たちを中心とした、空港に反対する集まりだったと言っていいだろう。どういう経緯だったかよく覚えていないが、大先輩の仲良し、古屋能子さんに誘われたというのか、手伝えと言われたのだったか。吉川勇一さんの事務所で月に一度の午後におこなわれる会合に出席して、お茶などいれながら先輩たちの議論をきいていた。前田さんを囲んで、吉川さん、日高六郎さん、福富節男さん、鎌田慧さん、古屋さんがいつものメンバーだった。
あるとき、話し合いが終わってから、福富さんがなにかの話のついでに「ぼくは樺太の生まれでね」と言ったので、「わたしの父も樺太で生まれたんですよ」とつい反応した。すると少し興奮気味に福富さんが続けた。「あなた、叔母さんがいない? ぼくの同級生に八巻さんという頭のいい女の子がいたんだ」「叔母は4人もいますよ、いちばん上の叔母は節子という名前です」「ああ、やっぱりそうだった! 会いたいなあ」という驚くべき展開になった。そのときは気づかなかったが、同級生の節男くんと節子さんだったのね。
東京帝国大学理学部数学科に進学した数学者の福富さんから、頭のいい女の子と言われた叔母の節子さんは、牛乳瓶の底のような度のきついメガネをかけていて、確かにきりりと頭のよさそうな雰囲気を持っていた。樺太でなにをしていたのかは知らないが、敗戦後に苦労して仙台まで引き揚げてきた話は、幼いわたしも直接きかされた。牛乳瓶の底のメガネはそのままに、坊主とベリーショートの中間くらいまで髪の毛を切り、男用の上着を着た彼女が船の甲板の手すりにもたれて海を見ている写真も見た。確かに、写真を見た、と思うのだが、それはわたしの想像力が捏造した映像だったのかもしれないとも思う。誰が撮影したのかわからないし、撮影したフィルムを現像したとしてそのプリントが節子さんの手元に届くのは、戦後の混乱のときには容易ではなかっただろう。
わたしは福富さんに叔母の住所を渡した。次の「宣言の会」の集まりのときには、ふたりの文通がはじまったのだと、福富さんがうれしそうに報告してくれた。叔母からの手紙をちゃんと持ち歩いていて、封筒だけ見せてくれた。それから一年くらい後には、今度福富さんと会うことになったのよ、と叔母がうれしそうに言った。実際にデートはなされたようだが、そのことについては詳しく聞く機会がなかった。「宣言の会」はなんとなく解散してしまったし、叔母は遠くに引っ越した。福富さんとも叔母とも二人が亡くなるまで会えなかった。でもそれを残念だとは思わないことにしている。中途半端なままで完結していない小さな楽しいできごとはときどきあやうい記憶の底からよみがえってきて想像力を刺激してくれるから。
あるとき、話し合いが終わってから、福富さんがなにかの話のついでに「ぼくは樺太の生まれでね」と言ったので、「わたしの父も樺太で生まれたんですよ」とつい反応した。すると少し興奮気味に福富さんが続けた。「あなた、叔母さんがいない? ぼくの同級生に八巻さんという頭のいい女の子がいたんだ」「叔母は4人もいますよ、いちばん上の叔母は節子という名前です」「ああ、やっぱりそうだった! 会いたいなあ」という驚くべき展開になった。そのときは気づかなかったが、同級生の節男くんと節子さんだったのね。
東京帝国大学理学部数学科に進学した数学者の福富さんから、頭のいい女の子と言われた叔母の節子さんは、牛乳瓶の底のような度のきついメガネをかけていて、確かにきりりと頭のよさそうな雰囲気を持っていた。樺太でなにをしていたのかは知らないが、敗戦後に苦労して仙台まで引き揚げてきた話は、幼いわたしも直接きかされた。牛乳瓶の底のメガネはそのままに、坊主とベリーショートの中間くらいまで髪の毛を切り、男用の上着を着た彼女が船の甲板の手すりにもたれて海を見ている写真も見た。確かに、写真を見た、と思うのだが、それはわたしの想像力が捏造した映像だったのかもしれないとも思う。誰が撮影したのかわからないし、撮影したフィルムを現像したとしてそのプリントが節子さんの手元に届くのは、戦後の混乱のときには容易ではなかっただろう。
わたしは福富さんに叔母の住所を渡した。次の「宣言の会」の集まりのときには、ふたりの文通がはじまったのだと、福富さんがうれしそうに報告してくれた。叔母からの手紙をちゃんと持ち歩いていて、封筒だけ見せてくれた。それから一年くらい後には、今度福富さんと会うことになったのよ、と叔母がうれしそうに言った。実際にデートはなされたようだが、そのことについては詳しく聞く機会がなかった。「宣言の会」はなんとなく解散してしまったし、叔母は遠くに引っ越した。福富さんとも叔母とも二人が亡くなるまで会えなかった。でもそれを残念だとは思わないことにしている。中途半端なままで完結していない小さな楽しいできごとはときどきあやうい記憶の底からよみがえってきて想像力を刺激してくれるから。
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by suigyu21
| 2025-02-01 15:44
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