水牛だより

ほんとうはさよならはいらない

春の終わりに訃報が届いた。あ、と思って、一月に届いた「ひかりのはこ 9」をもう一度開く。出来上がると彼女がいつも送ってくれた詩のリーフレットだが、受け取ったときに、封筒に万年筆で書かれた私の住所がいつもとちょっと違っているように思えたことを思い出す。これまでより弱々しい字だったのだ。このときすでに具合が悪かったのだな。

そして、詩のなかに「さようなら」の文字を、あらためて、見る。
「空の時間」という詩から。


 ・・・
 空はやがてみんなの住むところ
 ひとびとの精神(スピリッツ)が
 生きているところ。

 輝きながらわたしの中にある
 マグネシウムや鉛や亜鉛や鉄や
 コバルトや錫や銅は
 この星に残り
 精神(スピリッツ)は空といっしょに
 この星を包む。
 ・・・

 あたらしい大きな白い雲
 こんにちは。
 そしてさようなら。
 ほんとうはさよならはいらない。
 ひとびとと永遠に住んでいる
 空の時間の中では。


片山令子さんとはじめて会ったのは、友部正人さんとカラワンとのコンサートでだったと思う。たぶん1980年代のいつか。偶然となりの席にすわった。そしてなにか話して、お互いに興味を持ったのだろう、住所を交換したのだった。それから文通が始まったか、というと、そんなことはなく、仕事のあれこれを、お互いに送りあって、今年までそれが続いた。ダンスやコンサートの会場でばったり会うことが何度かあったけれど、それこそ「こんにちは。そしてさようなら。」で、実際に話した機会は多くない。会って話そうと思えばできたのに、お互いにそうしなかった。たぶん積極的に。

淡い関係といっていいのかもしれないが、しかしそれは持続した関係だったから、ある意味では強い関係ともいえる。「故人の意向により、病気のことはお知らせしていませんでした。」とのことで、それもまったく令子さんらしいと思った。喪失感は強いが、異議はありません。

初夏を通りこして、朝から真夏のような光が輝いている。外を歩いているときに空から降ってくるキラキラした陽射しを全身にあびていると、ときどき彼女のスピリッツを感じる。だからほんとうに、さよならはいらない。


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# by suigyu21 | 2018-06-30 21:14 | Comments(0)

水に映る影とその影を浮かべている水

『ハウスキーピング』(マリリン・ロビンソン 篠森ゆりこ訳 河出書房新社)を読んだ。ハウスキーピングが家事のことだとすれば読む気にならないタイトルだけど、この小説では家事ではなく、家族のつながりが主題となっている。家族とは血のつながりだ。語り手の女の子は母を自殺で失い、その自殺した母は父を鉄道事故で失っている。母は自分が運転する自動車で湖に飛び込む。その父は湖にかかる橋から乗車していた鉄道ごと湖に落ちた。

湖と水は人間たちとともに主人公であって、その描写が美しくもおそろしい。洪水に見舞われた家の中で火をおこすところや、湖を小舟でいくシーンなど、大量の水は脅威でありながら、人にとって落ち着いた優しさもある。

「そして現在の瞬間というのは、いつも人の考えにすぎない。考えはそれを生む瞬間と関係があり、その関係は大きさや重さにおいて、水に映る影とその影を浮かべている水の関係に等しい。考えも影も、同じように偶然によるものか、ただの受け身だ。かがんで水たまりを覗きこむ人は誰もが水たまりの中の女になり、私たちの目を覗きこむ人は、誰もがその目に映る影になる。これらに反論の余地はない。このように私たちの考えは、前をとおりかかったものを映し出している。でもそれだけではすまない難しさがある。」

水に映る影とその影を浮かべている水の関係、がこの小説を貫いている。そしてそれはこの世界の構造といってもいいだろう。登場人物はまだ生きているようでもあり、すでに死んでいるようでもある。自殺した人や鉄道事故に合った人だって、水中で生きているのかもしれない。生死は明言されていないが、曖昧なのではなく、名言されないままでいいのだった。

この小説に惹かれて、次に『ギレアド』を読み始めたが、こちらは宗教がからんでいるせいか、すぐに挫折した。残念なことだなあ。しばらくしてからもう一度読んでみようか。


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# by suigyu21 | 2018-05-28 13:58 | Comments(0)

五月が導く

自宅の裏にある大きなスダジイが一気に花開いた。むせるような花の匂いが一本の大木の周囲に広く満ちている。夜に降った雨でどうなったか、雨が止んだのでドアをあけてみたら、だいじょうぶ、まだ匂っているどころかさらに生臭さをおびた強い匂いになっている。今夜は小さな白い花で木が白っぽく膨張している。生命力という言葉を思う。

片山廣子は青空文庫で偶然に出合った。
青空文庫のトップページの右上に「www.aozora.gr.jp 内を検索」という窓があり、検索をいろいろと楽しめる。作家や作品を探すという目的が決まっているときはもちろん役立つ機能だが、たわむれになにか語句を入れてみると、図書カードや作品中にその語句が使われているところが表示される。

あるとき、五月、という語句を入力して検索してみたら、ものすごくたくさんの検索結果のなかに「或る国のこよみ」があって、読みにいった。それが片山廣子との始まりの一歩で、収録されているどれも短いエッセイをすべて読んだ。はじめて読んだ「或る国のこよみ」は翻訳者として、短歌を詠む人として、そしてエッセイストとして片山廣子の三つのエッセンスが詰まっていたのだった。これらのエッセイが収録されている書籍の『燈火節』(つまり、青空文庫に収録されているエッセイの底本です)もちゃんと読んだ。『火の後に』という翻訳集成も出ている。小説や詩、戯曲を訳していることは知っていたけれど、ミステリーも訳していることをこの本で知って、うれしい。

デジタルでもこんなふうな本(?)との出合いがあることを強調しておきたい。書店でお目当ての本の隣りにある本につい目がいって、おもしろそうと思って読んでみたら大当たり、という経験と少しだけ似ているし、それ以上でもあると感じた。検索という機能はこれからもっと深まっていくに違いない。たぶん、おそらく、きっとね。


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# by suigyu21 | 2018-04-28 21:16 | Comments(0)

すてきなピンクいろ

貧乏をどのように生きるかを考えることは、貧乏をどのように抜け出すかを考えるよりずっと楽しく役にも立つ。

この場合の貧乏は貧困とは違うし、もちろん赤貧とも違う。明日には死ぬかもしれないなら、楽しいなどと言ってはいられない。そこはひとまず置いておき、赤ではなくピンク色の貧乏がよい、と言ったのは片山廣子だった。近くに住むお金持ちのおばあちゃんが井戸に飛び込んで死んだことを知り、「あの人がこんなにきれいな家の人でなく、もつと貧乏なもつときうくつな生活をしてゐたら、死ななかつたらうと思つたのである。」「たとへ僅かの物でも手に持つことは愉しい。のんきな気もちで人から貰った金では自分が苦労して取つた物ほどたのしい味がないやうだ。びんばふといふものには或るたのしさがある。幸福といふ字も当てはまるかもしれない。死んだおばあちやんはびんばふは知らないで死んでしまつた。」

片山廣子のこのエッセイは「赤とピンクの世界」というタイトルで、6ページほどのもの。おしまいにまたグッとやられてしまう。「このピンク色の世界に住むこともずゐぶん苦しいけれど、びんばふだからいざ死なうといふ気にはなれない。私は欲も得もすつかりは忘れきれない人間だから、懐中になにがしかのお金を持つてゐれば、そのお金のあるあひだは生きてゐるだらう。赤貧となつては、土に投げ出されたお池の鯉のやうに死ぬよりほか仕方があるまい。死ぬといふことは悪い事ではない、人間が多すぎるのだから。生きてゐることも悪い事ではない、生きてゐることをたのしんでゐれば。」

そして森茉莉はさらに貧乏のよさを細部にまで広げた人だ。『贅沢貧乏』な身の回りと、『貧乏サヴァラン』のおいしさ。ピンク色のびんばふにのんきに安住していきたい。なんとか貧乏を抜け出したお金持ちを見てみれば、彼らの辞書には安住ということばはなさそうで、だからなのか、ケチだと思う。ぜんぜん魅力を感じない。


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# by suigyu21 | 2018-03-31 21:48 | Comments(0)

謎を生きている

新しい年が明けて、ほぼひと月たち、ようやく新しい年なのだなと実感できるようになった。もう2017年ではないと感じるようになった、というほうが正確かもしれない。

今年になってすでに2度もコンサートに行った。両方ともクラシックの名曲のコンサートだったが、目の前で演奏される音楽はその場での生きものだからいいなと思う。音は生まれるはしから消えていくが、わたしも生きているからちゃんとそれを受けとめることができる。

東京でも冬らしく雪が積もった。行くはずだったところに行けず、会うはずだった人に会えず。家に閉じ込められたからといって特になにかが出来るわけでなく、窓ごしに降り積もる雪を見ているだけで満足していた。夜になると雪景色は美しさを増す。

新年を迎える前後には久しぶりに会う人もたくさん。こどものころからの知り合いと会い、最近知り合った人にも会い、時間というものはとめどなく流れているものではない、とかいうよくわからない量子力学だったかな、そういう学問の言い分を信じたくなった。しかし時間が実在しないのなら、年齢とはなんだろう。生きていることは謎だらけです。


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# by suigyu21 | 2018-01-30 21:13 | Comments(0)

そして、その後

引き算レシピを読んでくれた編集者から、食べ物に限定しないで、青空文庫の収録作品と関連するエッセイを書いてみないかと言われた。本を読むのは好きだけれど、とくに系統だてて読んでいるわけではないし、そうたくさん読んでいるわけでもない。たんに自分がおもしろそうだと思うものだけを読んでいる。自分の好みだから言うまでもなく偏っているのだが、そういうものでさえも読み切れないほどたくさんあるのがこの世界というものだ。

そういう感じで書いたものが以下に残っている。

  手紙

  たけのこ

  略歴

  犬

  明日の天気

  歩行

  ボタン(あるいは月夜の浜辺)


一冊にまとめましょうと言われたのだったが、編集の仕事が忙しくなって、書くどころではなくなってしまった。でもこうしてかけらのようなものがネットの隙間にひっかかっているのが自分らしく思える。


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# by suigyu21 | 2017-12-07 20:27 | Comments(0)

引き算レシピ12 塩をつける

食べようと手に持っただけで、すでにすっぱい。すぼまった口の中には唾液が充満してくる。梅干ではありません、夏みかんです。

十代に達するまでにまだ二、三年はあったあのころ、夏みかんが好物だった。いまなら「超」とつけたいほどの強い酸味に少しの苦さ。小皿に盛った塩をたっぷりとなすりつけて一個まるまるをひとりで食べ終わるころには、塩と酸の作用によって唇は真っ白にふくれあがり歯はギシギシになる。でも少女の想像上の麻薬の効果のように全身は爽快となる。

クエン酸プラス塩分を摂取して元気になったのね、と今の知識で説明はできるが、あの味はもう今はない。右肩上がりの経済状態と比例して甘さが好まれるようになって、夏みかんは甘夏に人気を奪われた。いま夏みかんと呼ばれているのは甘夏のことであり、昔の夏みかんとはちがう。夏みかんを愛した者にとっては甘夏はなんだか中途半端な味がする。

正式には夏橙という名を持つ夏みかんは、一七〇〇年ごろに山口県長門市の海岸に漂着した種子から広く栽培されるようになったという。文旦の血を引く自然雑種、と分類されている。いったいどこから海を渡ってやって来たのだろう。名も知らぬ遠き島より、と思いたいところだが、近いところから流れ着いたのではないだろうか。あまりロマンチティックな気持ちにはなれないのは、みかんという味からはみだすエキゾティックな要素がなかったからだ。それに四国や九州では江戸時代から文旦は栽培されていたようだし。

果物は完熟していやが上にも甘くなったものより、ちょっと手前の未熟な青い感じの味が好ましい。初めてタイを訪れたのはもう四半世紀も前のことだが、そのとき未熟のマンゴーやグアバを食べる習慣があることを知ってうれしかった。カットされて売っているまだ固い果実には必ず塩と唐辛子が入った小さなビニール袋がついていて、それをつけて食べるのだ。おいしさが複雑になって、いくらでも食べられるのが難点だった。

夏みかんになすりつけていたのは専売公社が売っていた真っ白な「食塩」だった。塩といえばそれしかなかったあのころ。一九九七年に専売法が廃止され、さらに二〇〇二年には完全自由化されて、日本や世界のいろんな土地のいろんな種類の塩が手に入るようになった。ほんの微量のミネラル分がそれぞれの土地の塩の味を際立たせているのを確かめるのは楽しい。赤い粘土が混ざってオレンジ色したハワイの塩をつけた夏みかんはどんな味がするのだろうか。色のとりあわせがきれいで、いかにもおいしそうだ。

岡本かの子に「百喩経」という小品がある。その「前言」によれば、「百喩経(ひゃくゆきょう)は、仏典の比喩経のなかの愚人(仏教語のいわゆる決定性(けつじょうしょう))の喩(たと)えばかりを集めた条項からその中の幾千を摘出したものである。但し経本には本篇の小標題とその下の僅々二三行の解説のみより点載しては無い。本文は全部其処(そこ)からヒントを得た作者の創作である」。岡本かの子は仏教研究者でもあった。

十あるコントの最初は「愚人食塩喩」で、「塩で味をつけたうまい料理をよそで御馳走になった愚人がうちへ帰って塩ばかりなめて見たらまずかった」という解説の後に展開するのは、なんにも味のない気になる若い男に「すこし塩をつけて喰べてみ」たらどうなったか、というおはなし。当然、未熟の果物のようにおいしいだけですむはずはないのでした。おとなしい男にはすこしの塩でも利きすぎることを忘れてはいけない。


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# by suigyu21 | 2017-12-07 18:10 | Comments(0)

引き算レシピ11 かつおの皮

ある初夏に友人が作る彼の母親直伝のかつおのたたきをごちそうになったことがある。かつおの刺身を大きな皿の真ん中に並べて、その上から、きうり、ねぎ、しょうが、にんにく、みょうが、しそ、などを細切りにした青い薬味を山ほどかけて、最後にしゃもじでその山を叩いて形を整えたら、摘みたての木の芽をのせる。それが彼の家の「たたき」の流儀だという。青くきれいな薬味の山の上からポン酢をかけて、食べる。青い味がかつおとなじんでさっぱりとおいしかった。

かつおのたたき、というと、皮ごと藁で焼いたものをまず思い浮かべる。魚介類の表面にちょっと火を通すと旨みが増すのは知っているが、かつおの場合は皮が特に重要な気がする。

「かつおは皮がおいしい」と宣言しているのは東京・田園調布でパテ屋という惣菜屋を営む林のり子さんだ。かつおを刺身にするとき、皮は捨てられる。捨てられる運命の皮を魚屋に予約して取っておいてもらう。それを焼いて、青い薬味をたっぷりかけたもの、つまりかつおの皮のたたきがおいしいというのだ。香ばしさと歯ざわりが想像のなかで跳ね上がる。

鹿児島の枕崎港では遠洋漁業でとられたかつおが水揚げされて、鰹節に加工される。大量に残った皮は塩蔵にする。多めの塩をふり、一晩漬け込んで次の日にさっと水で洗い、その後むしろの上で乾燥させる。焼いたりゆでたりしてさつまいもといっしょに食べるのだそうだ。脂がのっていておいしいらしい。無駄なく食べる、土地の伝統食ともいうべきもの、一度は味わってみたい。

かつおはつねに群れとなって暖かい海を回遊している。黒潮にのって初夏に北上するのが初がつおで、秋に南下してくるのが戻りがつお。群れの移動は速い。時速は約三十キロという研究結果があるようだ。群れでこの速度だから、襲われたりして、一匹で必死に逃げるときにはその十倍くらいの速度が出るという。自転車と新幹線くらいの違いがある。

かつおの体型をあじやさばと比べるてみると、あきらかにお腹まわりが太い。完全にちかい紡錘型なのだ。これはもちろん速さに関係している要因だ。さらに。魚にはあるまじきことに、かつおの皮膚にはほとんどウロコがない。体を保護するためのウロコを退化させることで水に対する抵抗を弱めて速く泳ぐ。

何のためにそんなにも速く回遊しなければならないのか理解できないが、ウロコをなくすというかつお自身の引き算によって、皮は食べやすいのだとわかってきた。捨てられた皮にウロコがついていたら、食べるところまで到達できそうもない。

江戸に生まれた初もの好きな文化は「目には青葉山時鳥(ほととぎす)初松魚(かつお)」(山口素堂)と詠まれたが、江戸っ子の長谷川時雨に批判されていることも覚えておかなければいけません。

   *

利鞘をとつて衣食し、肥る商人を賤しめたのを、江戸の市井でうまれた「川柳」が、初鰹でもつてよく語つてゐる。
  初鰹女の料(れう)る魚でなし
  初鰹旦那ははねがもげてから
  初鰹煮て喰ふ氣では値がならず
  初鰹得心づくでなやむなり
  初鰹値をきいて買ふ物でなし
「はねがもげてから」は飛ぶやうに賣れる勢のいいうち買はないといふことであり、「煮て喰ふ氣」はさしみにする品は高いからであり、「得心づくでなやむ」のは安かれ惡かれ、中毒(あた)るのを承知で買つた、といふ皮肉で、平日貧乏人と見下される側から、旦那側の、金持ち吝嗇をあざけつたものだ。
(長谷川時雨「初かつを」)

   *


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# by suigyu21 | 2017-12-07 18:09 | Comments(0)

引き算レシピ10 お茶

小学校に入ったばかりの私を父が撮影した写真が何枚かある。そのなかの一枚に固定された私は茶の間のこたつに入り、自分専用の湯呑みでお茶を飲んでいる。祖母から母へと伝わったお茶好きをすんなりと受け継いでいるのだ。子供たちにも年に何度か、ふだんのものとは根本的に違うおいしさのお茶をいれてもらえることがあった。新茶だったのか、玉露だったのか、玉露の新茶だったこともありうる。

   *

普通の人は茶を飲むものと心得ているが、あれは間違だ。舌頭《ぜっとう》へぽたりと載《の》せて、清いものが四方へ散れば咽喉《のど》へ下《くだ》るべき液はほとんどない。ただ馥郁《ふくいく》たる匂《におい》が食道から胃のなかへ沁《し》み渡るのみである。歯を用いるは卑《いや》しい。水はあまりに軽い。玉露《ぎょくろ》に至っては濃《こまや》かなる事、淡水《たんすい》の境《きょう》を脱して、顎《あご》を疲らすほどの硬《かた》さを知らず。結構な飲料である。眠られぬと訴うるものあらば、眠らぬも、茶を用いよと勧めたい。
(「草枕」夏目漱石)

   *

「草枕」の老人が六歳の私に直接こう話してくれたなら、きっときちんと理解できたと思う。あのころから、お茶のせいで眠れないことはない。

抹茶の味を知ったのはおとなになってから。茶道の心得はなくたって、点ててもらったお茶は文句なくおいしい。お菓子も付いているものね。自宅でひとりのときには、抹茶にすることが増えた。それらしい碗に抹茶を入れ、お湯をそそいで茶筅でささっと混ぜる。お茶の味のために茶筅だけは欠かせないと思う。一口飲めば、千利休の「茶の湯とはただ湯をわかし茶をたてて飲むばかりなる本を知るべし」というお言葉をもっとも単純に実現しているような気持ちになる。一杯で満足できなければもう一杯。抹茶や粉茶は飲んでしまうとあとに何も残らない。引き算は成立しないいさぎよさです。インスタントというわけではないのに、お湯さえあればすぐに飲める。旅に抹茶を持っていくのはいい考えだと思う。

そして、お茶に似合う花といえば、だんぜん侘助椿だ。

   *

侘助椿は実際その名のやうに侘びてゐる。同じ椿のなかでも、厚ぽつたい青葉を焼き焦がすやうに、火焔の花びらを高々と持ち上げないではゐられない獅子咲(ししざき)のそれに比べて、侘助はまた何といふつつましさだらう。黒緑の葉蔭から隠者のやうにその小ぶりな清浄身(しやうじやうしん)をちらと見せてゐるに過ぎない。そして冷酒のやうに冷えきつた春先の日の光に酔つて、小鳥のやうにかすかに唇を顫(ふる)はしてゐる。侘助のもつ小形の杯では、波々(なみなみ)と掬(く)んだところで、それに盛られる日の雫(しずく)はほんの僅かなものに過ぎなからうが、それでも侘助は心(しん)から酔ひ足(た)つてゐる。
(「侘助椿」薄田泣菫)

   *

お茶の木が椿の一種だと判明したのは一八一八年らしい。八世紀には「茶経」が書かれてずっと飲まれ続けていたのに、正体がわかるまで長い時間がかかっている。そんな人間界の事情とは関係なく、お茶と侘助とは同じ椿として呼び合っていたにちがいない。侘助が「心から酔ひ足つてゐる椿」なら、お茶は「飲むばかりなる椿」だろうか。ふたつの椿の取り合わせは茶室の中もいいけれど春先の日の光の下でもよく似合う感じがする。


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# by suigyu21 | 2017-12-02 19:52 | Comments(0)

引き算レシピ9 山葵

好きなものは、と訊かれたら、些の躊躇なしに、旅と酒と本、と私は答える。
種田山頭火「雑記」

   *

あまりにもそのものずばりな、好きなもの。どう考えても反論はできません。

旅はこの身を遠くにはこぶ。本はここで静かに読んでいるのに知らない間にどこか遠くにはこばれてしまう。その間にある酒は、飲むほどに別世界にはこばれることがあれば、ここにはないかあってもかけらだけの、この世のあるべき姿を見せてくれることもある。三つの順番が山頭火らしいと思うけれど、泥酔して死んだ山頭火にとっては、この三つは別々に存在している好きなものというより、旅と酒、酒と本、と酒は旅と本とにぴったりとはりついていると感じる。よく考えるとおそろしいことだ。おいしく飲んで、ある量に達するとそれ以上は飲めなくなる体質でよかった。おかげでアルコールのおそろしさとは無縁でいられる。

寒いときにはお燗した酒がよい。あたたかい日本酒はすぐに吸収されるからグビグビとは飲めないし、かならず肴が必要なのもいいことだ。食べながら飲むと、酒も肴も、よりおいしくなる不思議は、足し算ではなくかけ算だと思う。

味と酒がよいかけ算になるように、肴は引き算でいきたい。たとえば、こんなふうに。

   *

酒の良いのを二升、そら豆の塩茄(しおゆで)に胡瓜(きゅうり)の香物(こうのもの)を酒の肴(さかな)に、干瓢(かんぴょう)の代りに山葵(わさび)を入れた海苔巻(のりまき)を出した。
「深川の散歩」永井荷風

   *

東森下町の二畳と四畳半の二間きりの裏長屋に深川夜烏という俳人が元芸者の妻とその母と姉の四人で暮らしていた。そしてある日その家に友だち十人ほどを招いた酒宴のメニューがこれ。四畳半に毛布を敷き真ん中に食卓を置いて宴会場としたらしい。

永井荷風によれば、深川夜烏は「山の手の町に居住している人たちが、意義なき体面に累(わずら)わされ、虚名のために齷齪(あくせく)しているのに比して、裏長屋に棲息している貧民の生活が遥に廉潔(れんけつ)で、また自由である事をよろこ」んだ人であり、「この湯灌場大久保の裏長屋に潜(ひそ)みかくれて、交りを文壇にもまた世間にも求めず、超然として独りその好む所の俳諧の道に遊んでいたのを見て、江戸固有の俳人気質(かたぎ)を伝承した真の俳人として心から尊敬していた」。

そら豆と胡瓜だから、きっとこの酒宴は夏だったのだろう。野菜を季節のものに変えて、山葵だけの海苔巻きがあれば、どの季節でも完璧にいけそうだ。わが家では海苔の袋を開けたら一帖ぜんぶを四半分にして密封容器に入れかえる。だから各自海苔にごはんとすりおろした山葵を好きなように好きなだけ乗せて、くるりと巻けばいい。あえてすし飯にしなくてもよさそうだ。

山葵が残るようだったら、梅干しひとつの実と同じ量のすりおろした山葵とを叩いてあえる。鶯宿梅という美しい名前がつけられていて、これ以上はありえないほどに日本酒と合う。もちろんごはんにも合う。かけ算の結果が最高値を記録すること間違いなしです。


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# by suigyu21 | 2017-12-02 19:51 | Comments(0)