『レシタティフ』(トニ・モリスン著 篠森ゆりこ訳 ゼイディー・スミス解説 晶文社 2025)は130ページに満たないちいさな本だ。
トニ・モリスンが公にした唯一の短編小説「レシタティフ」は56ページ。トワイラとロバータというふたりの少女が施設で同じ部屋になる。そこを出たあともおとなになるまで何度か出会って、そのときの境遇や施設でのできごとについて話し、理解をふかめていく。二人は人種が違い、いっしょにいると「塩と黒コショウ」みたいに見えるのだが、この小説のなかではどちらが塩でどちらが黒コショウなのか、最後まで明かされないまま物語はすすんでゆく。
「人種を異にする二人の登場人物についての語り(ナラティヴ)から、すべての人種的記号を取り除こうとする実験だった。」(『白さと想像力』)とトニ・モリスンは書いているが、すごい実験だということは読めばわかる。
「レシタティフ」のうしろにゼイディー・スミスによる解説(本人はエッセイといっている)「実はあの中にちゃんとした人間がいた」があり、こちらは「レシタティフ」よりも長い力作だ。なかでトニ・モリスンが講演でおこなった偏見を招く構造について紹介している。「これは、切り抜いて今後のために保存しておくにはとても役立つ要約になっている。」とゼイディー・スミスが書いているし、未邦訳でもあるようなので、ここに書き写しておくことにする。
***
(ゼイディー・スミス「実はあの中にちゃんとした人間がいた」より)
私はこのエッセイで、偏見を招く構造について多くのことを述べてきた。しかし昨今のご多分に漏れず、漠然とした比喩的な言い方をしている。一方モリスンは一九九五年にハワード大学でおこなった講演で、具体的にはっきりと語っている。独自の科学的な手法で分析してみせたのだ。これは、切り抜いて今後のために保存しておくにはとても役立つ要約になっている。抑圧的な構造を解体したいなら、それがどのように作られているかをよく見てみることが、きっと助けになるだろうから。
このことを改めて確認しましょう。最終的解決(訳注:ナチスがユダヤ人大量虐殺の計画をこう呼んだ)へ至るには、その前にまず一つ目の解決が、次に二つ目が、さらに三つ目すらも必要だということです。最終的解決へ至る道は一足飛びではありません。一歩、また一歩、それからまた一歩と進むのです。それはこのような感じかもしれません。
1 標的として、また注意をそらす存在として、内部に敵を作る。
2 露骨な、または暗号化された誹謗中傷や暴言をけしかけ、それを取り締まらないことにより、敵を孤立させ悪者にする。個人攻撃を、その敵に対する正当な非難として用いる。
3 情報源となる者や情報拡散者を動員したり、作り出したりする。そういう者たちは悪者扱いする過程に力を貸すことをいとわない。なぜなら利益がもたらされ、権力が与えられ、影響を及ぼせるからだ。
4 あらゆる芸術形式に制限をもうける。悪者扱いや神格化の過程に異議を唱えたり、その存続を危うくしたりする者がいれば、監視したり、信用を傷つけたり、排除したりする。
5 でっちあげたこの敵の代表者や同調者の全員を打倒し、中傷する。
6 その収奪の過程に賛同して正当化できる協力者を、敵の中から誘い出す。
7 学術的な媒体や大衆的な媒体で、その敵を病的なものとみなす。たとえば、その病理を自然の摂理のように見せかけるため、疑似科学的な人種差別や人種的優位性の作り話を再利用する。
8 その敵を犯罪者扱いする。それから敵ーー特に男性と、絶対に子供一ーを収容する施設の建設を準備し、予算を組み、もっともらしい理由をこじつける。
9 思考停止と無関心には、大規模な娯楽に加え、わずかな喜びやささやかな誘惑で報いる。たとえばテレビ番組の数分の出演、新聞の数行の記事、ささいな見せかけの成功、権力と影響力を得たかのような錯覚。ちょっとしたお楽しみ、ちょっと格好よくなった気分、ちょっと重要人物になった気分。
10 何が何でも沈黙を保つ。
トニ・モリスン「Racism and Fascism」(『The Souce of Self-Regard』 所収、未邦訳)
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訳者の篠森ゆりこさんは、マリリン・ロビンソン『ハウスキーピング』の訳者でもあることを知った。大好きな小説なので、うれしい。
トニ・モリスンが公にした唯一の短編小説「レシタティフ」は56ページ。トワイラとロバータというふたりの少女が施設で同じ部屋になる。そこを出たあともおとなになるまで何度か出会って、そのときの境遇や施設でのできごとについて話し、理解をふかめていく。二人は人種が違い、いっしょにいると「塩と黒コショウ」みたいに見えるのだが、この小説のなかではどちらが塩でどちらが黒コショウなのか、最後まで明かされないまま物語はすすんでゆく。
「人種を異にする二人の登場人物についての語り(ナラティヴ)から、すべての人種的記号を取り除こうとする実験だった。」(『白さと想像力』)とトニ・モリスンは書いているが、すごい実験だということは読めばわかる。
「レシタティフ」のうしろにゼイディー・スミスによる解説(本人はエッセイといっている)「実はあの中にちゃんとした人間がいた」があり、こちらは「レシタティフ」よりも長い力作だ。なかでトニ・モリスンが講演でおこなった偏見を招く構造について紹介している。「これは、切り抜いて今後のために保存しておくにはとても役立つ要約になっている。」とゼイディー・スミスが書いているし、未邦訳でもあるようなので、ここに書き写しておくことにする。
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(ゼイディー・スミス「実はあの中にちゃんとした人間がいた」より)
私はこのエッセイで、偏見を招く構造について多くのことを述べてきた。しかし昨今のご多分に漏れず、漠然とした比喩的な言い方をしている。一方モリスンは一九九五年にハワード大学でおこなった講演で、具体的にはっきりと語っている。独自の科学的な手法で分析してみせたのだ。これは、切り抜いて今後のために保存しておくにはとても役立つ要約になっている。抑圧的な構造を解体したいなら、それがどのように作られているかをよく見てみることが、きっと助けになるだろうから。
このことを改めて確認しましょう。最終的解決(訳注:ナチスがユダヤ人大量虐殺の計画をこう呼んだ)へ至るには、その前にまず一つ目の解決が、次に二つ目が、さらに三つ目すらも必要だということです。最終的解決へ至る道は一足飛びではありません。一歩、また一歩、それからまた一歩と進むのです。それはこのような感じかもしれません。
1 標的として、また注意をそらす存在として、内部に敵を作る。
2 露骨な、または暗号化された誹謗中傷や暴言をけしかけ、それを取り締まらないことにより、敵を孤立させ悪者にする。個人攻撃を、その敵に対する正当な非難として用いる。
3 情報源となる者や情報拡散者を動員したり、作り出したりする。そういう者たちは悪者扱いする過程に力を貸すことをいとわない。なぜなら利益がもたらされ、権力が与えられ、影響を及ぼせるからだ。
4 あらゆる芸術形式に制限をもうける。悪者扱いや神格化の過程に異議を唱えたり、その存続を危うくしたりする者がいれば、監視したり、信用を傷つけたり、排除したりする。
5 でっちあげたこの敵の代表者や同調者の全員を打倒し、中傷する。
6 その収奪の過程に賛同して正当化できる協力者を、敵の中から誘い出す。
7 学術的な媒体や大衆的な媒体で、その敵を病的なものとみなす。たとえば、その病理を自然の摂理のように見せかけるため、疑似科学的な人種差別や人種的優位性の作り話を再利用する。
8 その敵を犯罪者扱いする。それから敵ーー特に男性と、絶対に子供一ーを収容する施設の建設を準備し、予算を組み、もっともらしい理由をこじつける。
9 思考停止と無関心には、大規模な娯楽に加え、わずかな喜びやささやかな誘惑で報いる。たとえばテレビ番組の数分の出演、新聞の数行の記事、ささいな見せかけの成功、権力と影響力を得たかのような錯覚。ちょっとしたお楽しみ、ちょっと格好よくなった気分、ちょっと重要人物になった気分。
10 何が何でも沈黙を保つ。
トニ・モリスン「Racism and Fascism」(『The Souce of Self-Regard』 所収、未邦訳)
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訳者の篠森ゆりこさんは、マリリン・ロビンソン『ハウスキーピング』の訳者でもあることを知った。大好きな小説なので、うれしい。
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by suigyu21
| 2026-03-01 13:33
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2025年が暮れていく。ことしはどんな年だったのか、などとあまり振り返って考えることはしない性格だけれど、夏の前に知人のソムリエの女性が44歳で病死したことはおおきな衝撃だった。彼女の連れ合いはシェフ。ふたりで小さなお店を建てたばかりだったし、幼いこどもがいて、さあ、これから、というときだったのに。
30年ちかく前に、45歳の友人がやはり病気で亡くなった。亡くなったあとは彼女の不在に苦しめられることもあったが、いまはわたしを取り巻く自然のなかに彼女のスピリッツを感じるようになっていて、肉体はなくてもともに生きていることを実感する。
ふたりは同じくらいの年齢で亡くなって、それはどうしようもないことだが、とてもとても残念でせつない。どう考えてもふたりとも道半ばだったものね。などと思いをめぐらせているうちに、不思議なことに気づいた。同じくらいの年齢で亡くなっているのに、以前に亡くなった友人のほうが、ずっと歳を重ねている感じがするのだ。わたしといっしょに生きているうちに彼女も歳をとってしまったのだろうか。きっとそうだ、死んでも人は生き残った者とともに歳をとる。まあ、すべてはわたしの内の出来ごとだが、一つの発見といってもいい気がして、思わず青い空を見上げた。
30年ちかく前に、45歳の友人がやはり病気で亡くなった。亡くなったあとは彼女の不在に苦しめられることもあったが、いまはわたしを取り巻く自然のなかに彼女のスピリッツを感じるようになっていて、肉体はなくてもともに生きていることを実感する。
ふたりは同じくらいの年齢で亡くなって、それはどうしようもないことだが、とてもとても残念でせつない。どう考えてもふたりとも道半ばだったものね。などと思いをめぐらせているうちに、不思議なことに気づいた。同じくらいの年齢で亡くなっているのに、以前に亡くなった友人のほうが、ずっと歳を重ねている感じがするのだ。わたしといっしょに生きているうちに彼女も歳をとってしまったのだろうか。きっとそうだ、死んでも人は生き残った者とともに歳をとる。まあ、すべてはわたしの内の出来ごとだが、一つの発見といってもいい気がして、思わず青い空を見上げた。
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by suigyu21
| 2025-12-31 17:15
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「サティ没後100年記念 1840年台のプレイエルとエラールによるソロと2台ピアノのコンサート」をきいた。企画は青柳いづみこ。ゲストに高橋悠治と佐藤元洋。3人のピアニストがかわるがわるサティ、ショパン、クレメンティのワルツやノクターン、ソナチネなどを1980年代の2台のピアノで弾き継いでいく。すると古いピアノの音や演奏を鑑賞するだけでなく、主役のサティの引用のたくみさや独特な諧謔性が浮かび上がってくる。よいプログラムでした。
古い2台のピアノの音は軽く素朴な感じがよかった。コンサートはコンサート会場できくことが多いので、この日の会場は天井が低すぎるし全体が狭いと思ったけれども、2台のピアノが使われていた時代には、こうしたサロンのような場所で演奏されるのがふつうだったのかもしれないと思い直した。
帰り道で思い出したこと。もう数年くらい前に、歌謡曲に詳しい人が書いた新書をいただいた。そこにカバー曲の魅力についての一章があったので、たわむれに、水原弘「黄昏のビギン」を検索して、そのときヒットしたカバーをすべてきいてみた。もうよく覚えていないが、10曲くらいはあったと思う。元の歌がいいからだろう、どのカバーも楽しくきけた。歌詞の意味などを含めてよくよく考えぬかれたカバーをきいてから、オリジナルの水原弘の歌にもどってみると、簡素にただ歌っているという感じがして、そのことがおもしろいと思ったのだった。
古い2台のピアノの音は軽く素朴な感じがよかった。コンサートはコンサート会場できくことが多いので、この日の会場は天井が低すぎるし全体が狭いと思ったけれども、2台のピアノが使われていた時代には、こうしたサロンのような場所で演奏されるのがふつうだったのかもしれないと思い直した。
帰り道で思い出したこと。もう数年くらい前に、歌謡曲に詳しい人が書いた新書をいただいた。そこにカバー曲の魅力についての一章があったので、たわむれに、水原弘「黄昏のビギン」を検索して、そのときヒットしたカバーをすべてきいてみた。もうよく覚えていないが、10曲くらいはあったと思う。元の歌がいいからだろう、どのカバーも楽しくきけた。歌詞の意味などを含めてよくよく考えぬかれたカバーをきいてから、オリジナルの水原弘の歌にもどってみると、簡素にただ歌っているという感じがして、そのことがおもしろいと思ったのだった。
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by suigyu21
| 2025-12-01 16:03
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必要があって、水牛通信のころのことを少し調べる機会があった。1980年代のことだ。そのころから現在まで持ち続けている考えのタネのようなものはあるにしても、当時の現実はすべて終わったことなので、調べる楽しさはなにもなかった。それに自分たちの活動をアーカイヴしておこうという発想は誰にもなかったと思う。特に記録を残すこともしなかった。そういうことは後から来る人が熱量をもって調べるほうがいいと思う。そういう人がもしもいたらありがたいしし、いないならそれまで。
『トーヴェ・ヤンソン ムーミン谷の、その彼方』(2025年 筑摩書房)は冨原眞弓さんによるトーヴェ・ヤンソンの伝記だ。あるとき英語版のムーミンと出合って惹かれた冨原さんは、スウェーデン語を学んで、ヤンソンの小説を翻訳した。それは8巻のトーベ・ヤンソン・コレクションとして筑摩書房から出版されている。そのなかの一冊『誠実な詐欺師』は自ら改訳してちくま文庫に入っている。そして資料を集めて伝記を書いた。トーヴェ・ヤンソンと冨原眞弓というふたりの真髄(イデー)が、人間という生きもののサイズで満ちている。あとがきから引用する。
ともかく、ヤンソンさんは旅立った。二〇〇一年、宇宙の旅どころか、質料も形相もない、好きだった「真髄(イデー)」すらも存在しない、ほんとうに未知の世界へと行ってしまった。軽い手荷物すらもない、魂ひとつの、かろやかな旅だ。
かくて、ときにずしりと重く深く心の奥をざわつかせ、ときにやさしくなめらかに心の襞をふるわせる、言葉たちや色素たちがさまざまに交叉しあい絡みあって描きだす軌跡が、わたしたちのもとに残された。それらの軌跡にどのような意味をあたえるか、あるいはあたえないかは、ひとりひとりの感受性と志向性にゆだねられているのだと思う。
世界に先駆けてスウェーデン語から日本語への翻訳というやりがいのある、けれども原稿と結果とにひとりでむきあわねばならない仕事のなかで、わたしがほんの一瞬かいまみた芸術家トーヴェ・ヤンソンの真髄(イデー)を、ほかのだれでもない、このわたしが自分の言葉でいいあらわす。つまり、ヤンソンの人生と作品とをあわせてひとつの物語として語りたい。これが本書の目的である。
冨原眞弓さんはこの一冊の原稿を書き上げて、初校を見ることなく亡くなったという。それはとても残念な出来事だけど、本はこうして完成して、まだ生きているわたしは何度でも読むことができるのだ。冨原さんが情熱をもって入手した「ガルム」という反権力の雑誌がある。フィンランドで1923年から1953年まで発行されたスウェーデン語の雑誌でヤンソンはその主席画家だった。1923年創刊号の美しい決意表明文もこの冨原さんの本で知った。以下はその一部。
『ガルム』は愉しい雑誌となろう。愉しくあるには、勇気がいる、このフィンランドでは。『ガルム』はその勇気をふりしぼる。多くのひとがいやがっても、人間とはそういうものだ。とりわけ、この地では。それでも『ガルム』は愉しくやっていく。
『ガルム』は自由に、はばからず、もの申す雑誌となろう。
『ガルム』は在フィンランドのスウェーデン民衆に教えたい。にっこり笑うという技術(すべ)を。みずからの弱さを笑い、相手がたの愚かしさをも笑う。しかし、なによりもまず、人生は善きもので、根っこのところは健やかだと思えばこそ、にっこりと笑う。そういう技術を教えたい。いつだって太陽はふたたび輝くのだから。
『トーヴェ・ヤンソン ムーミン谷の、その彼方』(2025年 筑摩書房)は冨原眞弓さんによるトーヴェ・ヤンソンの伝記だ。あるとき英語版のムーミンと出合って惹かれた冨原さんは、スウェーデン語を学んで、ヤンソンの小説を翻訳した。それは8巻のトーベ・ヤンソン・コレクションとして筑摩書房から出版されている。そのなかの一冊『誠実な詐欺師』は自ら改訳してちくま文庫に入っている。そして資料を集めて伝記を書いた。トーヴェ・ヤンソンと冨原眞弓というふたりの真髄(イデー)が、人間という生きもののサイズで満ちている。あとがきから引用する。
ともかく、ヤンソンさんは旅立った。二〇〇一年、宇宙の旅どころか、質料も形相もない、好きだった「真髄(イデー)」すらも存在しない、ほんとうに未知の世界へと行ってしまった。軽い手荷物すらもない、魂ひとつの、かろやかな旅だ。
かくて、ときにずしりと重く深く心の奥をざわつかせ、ときにやさしくなめらかに心の襞をふるわせる、言葉たちや色素たちがさまざまに交叉しあい絡みあって描きだす軌跡が、わたしたちのもとに残された。それらの軌跡にどのような意味をあたえるか、あるいはあたえないかは、ひとりひとりの感受性と志向性にゆだねられているのだと思う。
世界に先駆けてスウェーデン語から日本語への翻訳というやりがいのある、けれども原稿と結果とにひとりでむきあわねばならない仕事のなかで、わたしがほんの一瞬かいまみた芸術家トーヴェ・ヤンソンの真髄(イデー)を、ほかのだれでもない、このわたしが自分の言葉でいいあらわす。つまり、ヤンソンの人生と作品とをあわせてひとつの物語として語りたい。これが本書の目的である。
冨原眞弓さんはこの一冊の原稿を書き上げて、初校を見ることなく亡くなったという。それはとても残念な出来事だけど、本はこうして完成して、まだ生きているわたしは何度でも読むことができるのだ。冨原さんが情熱をもって入手した「ガルム」という反権力の雑誌がある。フィンランドで1923年から1953年まで発行されたスウェーデン語の雑誌でヤンソンはその主席画家だった。1923年創刊号の美しい決意表明文もこの冨原さんの本で知った。以下はその一部。
『ガルム』は愉しい雑誌となろう。愉しくあるには、勇気がいる、このフィンランドでは。『ガルム』はその勇気をふりしぼる。多くのひとがいやがっても、人間とはそういうものだ。とりわけ、この地では。それでも『ガルム』は愉しくやっていく。
『ガルム』は自由に、はばからず、もの申す雑誌となろう。
『ガルム』は在フィンランドのスウェーデン民衆に教えたい。にっこり笑うという技術(すべ)を。みずからの弱さを笑い、相手がたの愚かしさをも笑う。しかし、なによりもまず、人生は善きもので、根っこのところは健やかだと思えばこそ、にっこりと笑う。そういう技術を教えたい。いつだって太陽はふたたび輝くのだから。
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by suigyu21
| 2025-11-01 19:10
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新米が売られているのを見る季節になった。しかし高騰した値段はほぼそのままで、安くなってはいない。米を作る人と食べる人とのあいだにどのようなことがおこなわれているのか。記事などを読んでもよくわからない。当事者以外にはわからないようになっているようだ。米を作る労働のしかたはむかしとは違っても、流通の構造はかわっていないのだろう。より強化されているのかもしれない。
そんなことをふと思う夜には、金芝河の「めしは天」を読む。
めしが天です
天がひとりのものでないように
めしはたがいにわかち食うもの
めしが天です
天の星をいっしょに見るように
めしはみんながともに食うもの
めしが天です
めしが口にはいるときは
天をからだにむかえるもの
めしが天です
ああ
めしはすべてたがいにわかち食うもの
そんなことをふと思う夜には、金芝河の「めしは天」を読む。
めしが天です
天がひとりのものでないように
めしはたがいにわかち食うもの
めしが天です
天の星をいっしょに見るように
めしはみんながともに食うもの
めしが天です
めしが口にはいるときは
天をからだにむかえるもの
めしが天です
ああ
めしはすべてたがいにわかち食うもの
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by suigyu21
| 2025-10-01 22:35
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