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水牛だより

どこででも眠れる

小学校二年生のおわりから六年生で卒業するまで、東京の山手線高田馬場駅から徒歩数分のところで暮らした。家は父の会社の社宅だった。その戸建ての家に、父と母と弟だけでなく、父の母親と妹弟がいて、7人もいっしょに暮らしていたが、木造の家には今よりもずっとゆとりがあったのだろう、狭かったという感じは少しも残っていない。自分が小さかったせいもあるのかもしれない。

父は自分の父親を早くに亡くしたため、長男として一家の父親役もつとめていたようだ。祖母、叔母、叔父が同居していたのはそういう事情のためだった。叔母は会社勤めをしていたが、自分の時間も楽しんでいて、たまにスケートリンクに連れていってくれたり、見たこともない外国のすてきなお菓子やガムを分けてくれたりした。眠れない夜には彼女の3畳の部屋の布団にもぐりこんだりもした。

その日はみんなが家にいたのだから、日曜日だったのだろう。午後から叔母のお見合いだというので、朝からわくわくし、約束の時間が近づくと、どんな人が来るのだろうと、叔母とふたりで板塀にのぼって、何度も道を眺めたりした。好奇心の方向が似ている二人。

叔母のお見合いの相手の男の人はひとりであらわれた。若くもないし、特別ハンサムでもないその人は応接間の机を前にすわって、父や叔母とあれこれ話しながら、お酒を飲んでいる。わたしも最初にご挨拶をして、一度か二度はお酌をしたが、なんといっても小学生のお子さまだからすぐに部屋から追い出された。しばらくして、どうなってるのかなと思って部屋を覗きにいくと、なんと、おじさんは畳の上で毛布をかぶって眠っていたのだった。でも具合が悪いわけではなかったらしく、すっきりと目覚めて、上機嫌で帰っていった。

ほどなく二人は結婚した。急に叔父さんとなったその人は、会うたびにわたしを「おお、まなむすめ!」と呼ぶのだった。いつも陽気で上機嫌だったが、シベリアに抑留されていたことなどを次第に知るようになった。慰霊碑を建てる活動を熱心にしていたし、覚えたロシア語で貿易の仕事もしていた。遊びにいくと、こどものころは粉っぽい味のする真っ黒なソ連製のチョコレートをたくさんもらった。おとなになってからは、クラッカーに分厚くバターを塗り、その上にキャビアを乗せて、アルメニアのブランデーといっしょに味わう。ときどきかかってくる電話に叔父はロシア語で応えている。そばで聞いていてわかるのは「ハラショー!」というひとことだけだ。そして、アルコールのあとはいつも一眠りするのが叔父の決まり。起きると第二ラウンドがはじまる。

シベリアのことを知りたいと何度かきいてみたが、話してくれることはなかった。鈍感な愛娘にも叔父は話したくないのだということだけはわかるようになった。たったひとつ教えてくれたのは、どこででも眠れたから助かった、ということで、どこででも眠れるのは、初めて会ったその日からずっと知っているけれど、なかばは冗談だろうと思っていた。

長谷川四郎傑作選『鶴』(ちくま文庫 2025)が出たので、何年ぶりかでまた読もうと思ったのは、やはり叔父のことが頭にあるからだろう。まず編者の堀江敏幸さんの解説を開いた。読みはじめて、すぐに目にはいってきたのは次のところ。

「脱走とはなにか。それを明確に説明するのはむずかしい。長谷川四郎の描く脱走兵は、脱走の過程で出発点に舞い戻ってしまう不条理を生きるのだが、驚いたことに、トラックに乗せられて見知らぬ場所へ運ばれていくあいだにも彼らは睡眠をとっている。疲弊して眠るだけではない。眠りによる休止が脱走に不可々であることを、身を以て知っているのだ。やみくもに、まっすぐ「すたすたと」歩いて行くばかりでは脱走は成立しない。そもそも「鶴」で描かれる国境監視哨での「私」の任務がそうであったように、眠りを削られるのが下級兵士たちの宿命である。しかし長谷川四郎の脱走兵は眠る。眠っているから歩くことができる。眠りはすなわち小さな死であって、『鶴』の短篇には無防備と緊張のせめぎあいのうちに生まれる、いわば積極的な受動性が見られる。これは『シベリヤ物語』の語り手が身を置いた、通訳的な傍観者の立場と無関係ではないだろう。」

そうか、どこででも眠れるその眠りはそのたびに小さな死であって、しかしほどなく目覚めるのが眠りなのだった。叔父がたったひとつだけ教えてくれたことは冗談ではなかったとようやく思い知る78歳の愛娘の春。堀江さん、ありがとうございます。

叔父のこどもは二人とも男の子だったので、わたしの愛娘としての地位は彼が亡くなった今でも続いていると思っている。ハラショー!なのである。


# by suigyu21 | 2025-03-01 13:11 | Comments(0)

樺太のふたり

成田空港が開港したのは1978年だから、「三里塚空港廃港宣言の会」はその年に発足したのだったかな。代表の前田俊彦さんの著書『三里塚 廃港への論理』(柘植書房)は1978年に出版されている。「三里塚空港廃港宣言の会」通称「宣言の会」はベ平連の人たちを中心とした、空港に反対する集まりだったと言っていいだろう。どういう経緯だったかよく覚えていないが、大先輩の仲良し、古屋能子さんに誘われたというのか、手伝えと言われたのだったか。吉川勇一さんの事務所で月に一度の午後におこなわれる会合に出席して、お茶などいれながら先輩たちの議論をきいていた。前田さんを囲んで、吉川さん、日高六郎さん、福富節男さん、鎌田慧さん、古屋さんがいつものメンバーだった。

あるとき、話し合いが終わってから、福富さんがなにかの話のついでに「ぼくは樺太の生まれでね」と言ったので、「わたしの父も樺太で生まれたんですよ」とつい反応した。すると少し興奮気味に福富さんが続けた。「あなた、叔母さんがいない? ぼくの同級生に八巻さんという頭のいい女の子がいたんだ」「叔母は4人もいますよ、いちばん上の叔母は節子という名前です」「ああ、やっぱりそうだった! 会いたいなあ」という驚くべき展開になった。そのときは気づかなかったが、同級生の節男くんと節子さんだったのね。

東京帝国大学理学部数学科に進学した数学者の福富さんから、頭のいい女の子と言われた叔母の節子さんは、牛乳瓶の底のような度のきついメガネをかけていて、確かにきりりと頭のよさそうな雰囲気を持っていた。樺太でなにをしていたのかは知らないが、敗戦後に苦労して仙台まで引き揚げてきた話は、幼いわたしも直接きかされた。牛乳瓶の底のメガネはそのままに、坊主とベリーショートの中間くらいまで髪の毛を切り、男用の上着を着た彼女が船の甲板の手すりにもたれて海を見ている写真も見た。確かに、写真を見た、と思うのだが、それはわたしの想像力が捏造した映像だったのかもしれないとも思う。誰が撮影したのかわからないし、撮影したフィルムを現像したとしてそのプリントが節子さんの手元に届くのは、戦後の混乱のときには容易ではなかっただろう。

わたしは福富さんに叔母の住所を渡した。次の「宣言の会」の集まりのときには、ふたりの文通がはじまったのだと、福富さんがうれしそうに報告してくれた。叔母からの手紙をちゃんと持ち歩いていて、封筒だけ見せてくれた。それから一年くらい後には、今度福富さんと会うことになったのよ、と叔母がうれしそうに言った。実際にデートはなされたようだが、そのことについては詳しく聞く機会がなかった。「宣言の会」はなんとなく解散してしまったし、叔母は遠くに引っ越した。福富さんとも叔母とも二人が亡くなるまで会えなかった。でもそれを残念だとは思わないことにしている。中途半端なままで完結していない小さな楽しいできごとはときどきあやうい記憶の底からよみがえってきて想像力を刺激してくれるから。


# by suigyu21 | 2025-02-01 15:44 | Comments(0)

柿を甘くする

秩父産の干し柿をいただいた。出来立て、といっていいだろうか、太陽によって渋柿が完全に甘くなってすぐの干し柿は、身をふたつにさいてみると、中はとろけるようにやわらかい。

久しぶりにとろけるような干し柿を食べながら思い出す幼いころの記憶。小学生になる前だから1950年ごろのことだ。仙台に祖母の家があって、敗戦後の一時期、みんながそこで暮らしていた。路面電車の終点から坂を登っていくと、坂の途中の右手に浄水場があり、左手からは広瀬川の流れが見渡せた。その先をさらに歩いて、どんづまりのような山道の脇にその家はあった。住所には「字」がついていた。門から玄関までまた坂を少し登ってゆく、その途中に大きな柿の木があった。冬のはじめに実が色づくと、まだ若かった叔母たちがその柿を採るのだが、渋柿なのでそのままでは食べられない。皮をむいて、藁でできた縄に、採るときに小さく残しておきた枝を差し込んでいく。柿の実がいくつかぶらさがっている縄を軒下の竿にずらりとのれんのようにかけていく。そして甘い干し柿になるのを待つのだった。

ちょっとおいで、と叔母に呼ばれて部屋にいくと、3人か4人の叔母たちがテーブルだったのかこたつだったかにすわっている。そしてテーブルだったかこたつだったかの上には大きなザルが置いてあり、干し柿がたくさんいれてある。天井から下がっている電球の暖かい光の下で、柿はどれもおいしそうな色に見える。しかし、干し柿にとっては微妙な時期で、完全に甘くなっているのもあれば、渋が残っているのもある。渋いのに当たると口中が渋くなって、その渋がなかなかとれずつらいけれど、甘くなったばかりのものは最高においしいのだ。その見極めができると思われていたわたしが呼ばれて、ザルのなかから甘くなったものだけを選んで叔母に手渡す役目を果たすのだった。実際に、なぜか甘くなっているものがわかり、何度選んでみても、失敗は一度もなかったと思う。干し柿をおいしいと感じるにはまだ幼なすぎたのに、なぜ?

父が長男だったからか、父の妹の叔母たちにとってはじめての姪のわたしは、生まれたときから関心を持たれ、あれこれと干渉されつつ育った。干し柿選びも、叔母たちのレクリエーションだったのかもしれないと思うこともある。わたしが選ぶのを失敗しても、甘いよと言って、そのときを楽しんだのではないだろうか。4人の叔母たちはすでにみなこの世の人ではないから、確かめることはできないが、そんなふうに想像することができるなにかが、そのときには確かにあったのだろう。

寒風と太陽にさらされて時間がたつうちに、柿はどんどん甘くかたくなってゆき、春の前には食べ尽くすか残り少なくなる。雪の山形で知人の家を訪ねたときにもそんな干し柿をごちそうになったが、「こいづはやらんねなあ」と言われた。これはあげられないわ。わかります、と思わず応えてしまったほど、おいしさが凝縮していた。自家製の干し柿は彼女のソウルフードだ。

ティムラズ・レジャバ駐日ジョージア大使のツイッターによれば、ジョージアでも干し柿を作るそうだ。日本とそっくりな柿ののれんの写真もあって、なんとなくうれしい。
https://x.com/TeimurazLezhava/status/1855601269467132375


# by suigyu21 | 2024-12-31 14:25 | Comments(0)

窓辺

窓は家のなかに外の光と空気をいれるためのもの、そして窓からは世界が見える。外から知らない人の家の窓をのぞくのは歓迎されないことだが、歩いていると、ふと気になる窓に出合う。窓という漢字のなかに「心」があることを思い出させてくれるような窓。

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# by suigyu21 | 2024-11-01 16:25 | Comments(0)

幼いころ

『シベリアの俳句』の続きでヴァルター・ベンヤミンの「一九〇〇年頃のベルリンの幼年時代」を読みたいと思って、その本はここにあるが、まだ読んでいない。幼年時代というものをもう少し徘徊してみたいのだ。

いま、当たり前に存在していて、わたしの幼年時代にはなかったものは多い。電気といったら電灯を連想するくらいで、TV、冷蔵庫、洗濯機、炊飯器などなかった。部屋はほとんどが畳だったし、トイレは汲み取り式。電話もない家のほうが多かった。ちょっと考えてもこんな具合で、いったいどうやって暮らしていたのだろうと自分のことながら不思議な気がする。ラジオはよく聞いた。聞こえてくるのはことばだけなので、勝手に思い違いをしていることがよくあって、いくつかは覚えている。

たとえば。日曜日の午後に「のど自慢素人演芸会」があり、それが終了するときにかならず「司会はミヤタテルでございました」とか言うのだが、その意味がまったくわからないのだった。司会の意味がわからないし、ミヤタテルが名前だということもわからない。ただたどしく大人に聞いてみるのだが、今度はわたしの質問の意味がわかってもらえない。

ベンヤミンの幼年時代とは雲泥の差だとは思うけれど、自分の記憶にある幼年時代を呼び戻しながら、読んでみたい。

 すばらしき好運われに来し如し大きデリツシヤスを二つ買ひたり(片山廣子)


# by suigyu21 | 2024-10-01 17:17 | Comments(0)