水牛だより

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読まなければわからない

『捨てる女』(内澤旬子 本の雑誌社)がやってきたので、ふとページを開いたらそのまま最後まで読んでしまった。おもしろいからですよ、もちろん。そのおもしろさを書いてみたいなと思ってしまった。内澤旬子さんは(おかしな)友だちだ。友だちの書いた本は読む、そして黙っている、それが友だちとしての正しい態度だと思っているのに。

友だちであるから、会えばあれこれ話す。この本に書かれていることのほとんどは旬子さんから聞いている。のだが、読むほうが断然おもしろかった。書いている人の理屈や論理がすんなりと通っている。それなのに、文章のスタイルは真面目な絶叫型とでも言うのか、理屈や論理とは似合わないと思っていても、そのスタイルに導かれて理屈や論理に行き着いてしまうのが、ほんとうに愉快な、読むということだった。

旬子さんから製本用の紙は無事に譲り受けたから、少しずつ使っている。イワトでの原画とお宝本の展示・即売会では、会場で「満月バー」をやった。ちいママ旬子に助けてもらった。捨てる女・旬子がそのときにどのような精神状態だったのか、それは本を読まなければわからないことだった。いまはわかっています、スミマセン、という感じも悪くはない。
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by suigyu21 | 2013-11-26 21:33 | Comments(0)

自転車に乗って

どのようにして自転車に乗れるようになったのか。子供のころのことだったが、いきなり大人用の自転車に乗ったような気がする。思い切ってスピードを出すと、うまくいった。もちろん自転車ごとこけたこともあった。少なくとも補助車輪のついた子供用の自転車に乗った記憶はないし、そもそもそんなもの、なかったような気がする。最近はペダルのない幼い子供用の自転車を見ることがある。ペダルがないので自分の両足で道路を蹴りつつ加速するから、いつでも両足かあるいはどちらか片方の足が地面についていて安定しているし、自由自在に操っている子供もいて見とれたりもする。

小学生のころ、母の実家にいくと、大学生だった叔父がときどき自転車のうしろに私を乗せて、西武線の線路のむこうの田舎の道を走ってくれた。大きくて重い黒い自転車だ。視線は上に向けて木々の隙間から見える空を味わい、お尻には車輪から伝わる砂利道のプチプチの感触があり、そうして走る音は耳から感じるのだが、ぜんたいは全身で受けとめる速さの爽快な感覚だった。なにもしゃべらずに乗っているだけで充足していた。だから自力で乗ってみたいと思ったのだろう。

「現代のような時代にあって自動車や列車と比べたときの自転車という乗り物の優位性はもしかしたら、同乗者がいないというただその一点に尽きるのかもしれない。」(『往古来今』磯崎憲一郎 2013 文藝春秋)

カメラを手にして歩いていると、町のいたるところに美しい自転車があることに気づく。いまはもう自転車には乗っていないから、被写体として鑑賞してみようか。
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by suigyu21 | 2013-11-01 21:27 | Comments(0)